(120ページ) アーティストの言葉 「ターンの先を見つめて」 (121から123ページ) イガラシヤスアキ[アーティスト] (タイトル)青く澄んだ四角い海を泳ぐ2匹 (本文)  ターンの話を最初にいただいたのは二千十五年になります。あれから7年が経とうとする今、私にとってターンとはいったいなんだったのかを一度振り返ってみようと思います。   実はターンの話をいただいた時、最初に頭に思い浮かんだのは、私のいとこの「ユキちゃん」のことでした。ユキちゃんは3つ年上のお姉ちゃんで、ダウン症です。子供の頃、夏休みになると母の静岡の実家に親戚が集い、子供たちはみんな一緒に川で泳いだり、虫を捕ったり、花火をしたり、毎日楽しく遊んで過ごしました。物心がつく前の小さな頃から一緒だったので、特に彼女がダウン症であることを意識することもなく、私は育ちました。  ですが小学校へ行くようになって、障害者と距離を置く同級生や先生、広くは社会の振る舞いに同調するかのように、自分もどこかユキちゃんとの距離を置くようになっていきました。それは仲間外れにされないように自分を守るための選択だったのだと振り返りますが、いとこのお姉ちゃんであるユキちゃんを「自分とは違う人」「分からない人」といった存在として見ようとすることに違和感を覚えました。この時、心の中に生まれたモヤモヤがその後もずっと自分の中にあり続けたのでした。  私はこれまでターンの活動を通じて東京、ブラジル、ペルーの福祉施設に通う自閉症やダウン症、知的障害のある方たちと交流をしてきました。彼らと過ごす時間は、自分のなかでは、どこか子供の頃にユキちゃんと過ごした時間を取り戻すようなところがあり、社会の目に怯えて縮こまってしまった自分の心を解放し、本来あるべき自分に立ち返る機会となりました。  私にとってこのプロジェクトはまさにターン。再び元の場所に帰り着くためのターンだったのです。私が子供の頃に抱えたモヤモヤは、今はもうありません。  では、ターンの現場はアーティストである自分にとって子供の頃の夏休みのような、ただ楽しい毎日だったのか? と問われると、むしろそれは逆で、国内外で経験した他のアートプロジェクトの現場と比べても非常にタフな部類のものでした。  アーティストとしてその土地やコミュニティに入り、地域の人との対話や、彼らの表情から様々な要素を読み取り、徐々に関係性を育てながらプロジェクトを展開していく自分にとって、普段のやり方が通用しないことに最初はストレスを感じました。しかしこういった状況は、これまでの自分の常識を捨て、新しいコミュニケーションスタイルを手に入れる、更には新しくモノやヒト、広くはこの世界と出会い直す貴重なチャンスでもあります。と、言葉でいうのは簡単ですが、これまでの自分を一度解体してみるというのは非常にタフなプロセスで、ターンに関わったアーティストたちの多くは、このようなある種の洗礼を受け、新たな眼差しを手に入れたのではないでしょうか。  以下に記すいくつかの言葉は、交流先の現場で彼らとつながろうとする過程で、自分の中から出てきた言葉です。 「ピッパ(サンパウロの自閉症児療育施設)に来てから『走ってつながっている』と思っていたが、それはこちらの勝手な思い込みだったのかもしれない」 「本当の気持ちは分からない。でも気持ちを言葉にできている人の本当の気持ちも実のところは分からない」 「でも、結局、自閉症に限らず、他人のことは分からないのだ。これまでは分かった気になりたかったのかもしれない。でも、『分からない』ことが分かった。言葉を使わない彼らと過ごして、他者を理解しようとするのではなく、どう向き合うかがとても大事なのだと思った」  これらの言葉から、勝手に彼らと距離を置いている自分の葛藤が伺えます。今思えば、そもそもつながろうとすること、理解しようとすること自体がおかしな話で、障害があろうとなかろうと、誰とだって距離や違いはありますし、自分の勝手な思い込みで相手を理解した気になって安心したいだけで、本質的には他者を理解することなど我々にはできないのです。でもだからこそ想像すること、相手を思いやることができるのです。  「違い」や「分からない」ことを怖がるのではなく、尊重し楽しむことができるか、それらを恐怖と捉え、それに打ち勝てるかどうかは本人次第ということをこの現場で学びました。そういった意味ではターンは心を鍛える機会でもありました。  最後に、私がターンの現場でのプロセスの中で手に入れた眼差しであり、これから生きていく中で大切にしていきたい、自分から出てきた一番気に入っている言葉を紹介します。 「人の心は変化する。人の数だけ世界があるのではなく、人の心の数だけ世界がある。心が変わることで、世界の捉え方が変わり、そして世界も変わっていくのだろう。今日、自分が捉えるこの世界は少し変わったような気がした」  この言葉を交流先の施設で出会った友人たちとユキちゃんに贈ります。  人には、自分には、何が大切なのか? 私はターンを通じて、自分に帰る、人間らしさに立ち返ることができたのだと実感しています。  久々にユキちゃんに電話をすると「やっちゃん! 元気にしてた? ヒロくんは? リエちゃんは? たみ子おばちゃんは? 家族のみんなはどうしてる?」「やっちゃん、またあれして遊ぼうよ、絵しりとり。またみんなで遊びにおいで」とあの頃と同じように話してくれます。  変わったのは自分で、また戻ったのも自分。  これが私のターンです。これからも東京の施設を中心に交流を続けていきます。 ─  実は今、別のプロジェクトで長崎県ごとうれっとうのなるしまの田岸地区にある小さな港でこの文章を書いています。誰もいない静かな港の青く澄んだ四角い海を、2匹の大きな鯛が付かず離れず泳いでいます。あぁ、これでいいんだなと……。           二千二十一年11月11日 (本文おわり) ----------- プロフィール イガラシヤスアキ 千九百七十八年千葉県生まれ。二千五年東京芸術大学大学院修士課程修了。人々との協働を通じて、その土地の暮らしと自然とを美しく接続させ、景色をつくり変えるような表現活動を各地で展開。二千五年に日本からミクロネシアまで約四千キロメートルをヨットで航海した経験から「海からの視座」を活動の根底としている。 【ターンでの活動 】  初年度より「クラフト工房ラマノ」と交流を重ね、「ターン・フェス」で活動を紹介するとともに、二千十七年より「ターン・ランド」で「手のプロジェクト」を開始。「手」にまつわる行為やしょさ、表現に着目し、一般の参加者とともに一から畑を耕し、綿づくりのプロセスを通して、様々なコミュニケーションの時間を生み出してきた。また、二千十六年は「ターン・イン・ブラジル」に参加し、サンパウロにある自閉症児療育施設「ピッパ」に通う。2017年には「ターン・イン・ビエンナーレスール」の一環としてペルー・リマの自閉症、知的障害者通所施設「セリート・アスール」での交流プログラムを行った。 (124から126ページ) イセカツヤ[アーティスト] (タイトル)物語ること (本文)  75歳のSちゃん。彼女は僕が学生の頃住んでいた街にあった小さなレストランの「看板おばあちゃん」だ。お店が終わった後、たまにハモニカを吹いてくれた。恥ずかしそうに入れ歯を外してハモニカを口にあてる。演奏はゆっくりと丁寧に。得意な曲は『ふるさと』だった。  数曲の演奏を終えると、その後Sちゃんの「お話し」が始まる。まずは自分が子供の頃の話から。養子に出され早くに母親と離れ離れになったこと。実はこのハモニカはその母親からもらった形見の品だった。八百屋の旦那に嫁いで辛いこともたくさんあったけど、そんな時はひとりでそっとハモニカを吹くのよ……。話している間、しわくちゃの表情豊かな顔が僕の酒の肴だった。  横にいる娘にところどころ突っ込まれていたので、どこまで本当かどうかわからないけど、いずれにせよ見事なストーリーテラーであり素敵な「語り手」であった。  そんなSちゃんは筆まめでよく手紙をくれた。その手紙には必ずひとつふたつ短歌が添えられていた。いつの春だったか、大学の卒業制作展を観てみたいというので上野へデートに誘った。その時のお礼の手紙にもすうしゅの歌が。  孫のやうなる若者とデートの日なり  いつになくエレガードなど使いおり  芸大への通学路なりしと云う彼と  雨の晴れ間を歩みゆく谷中の墓地    ハイヤーの運転手が昼寝してをり巾広く  桜並木のある谷中の墓地    教室へビールを配達せしといふ酒屋の  主人とゆき会へり本郷通りに  芸大卒展会場は若者らの静かなるうず  彼立ち止まれば我もとまれり    我が前に鶯汁粉彼はビール  最合に喰ぶるおでんひと皿  この6首の短歌であの日がひとつの物語として定着されている。  実は35年ぶりにこの6首の短歌が添えられた手紙を読み返してみたのだが。驚くほどにあの日が蘇ってきた。僕の記憶の中では視覚の端っこでしかなかったものを、Sちゃんの視線や心に留め置かれたモノで出来上がった歌は、その場面を見たもうひとつのカメラとしてあの日あの時を写し撮ってくれていた。6首の短歌の時間の流れの速度の変化や、それぞれの歌の中のものの見え方の「寄り引き」で映像的に見えてきさえする。  さて、いきなり自分の「思い出話」なんてお恥ずかしいのだが。ここのところ「話し」や「語り」が気になってしょうがない。それは僕がターンで交流を続けている「西荻ふれあいの家」での利用者とのやりとりの中で徐々に大きくなってきた。  高齢者向けのデイサービスを提供している施設なので、利用者はだいたい70から百歳前後。たまに遊びに行っては一緒にその日のイベントに参加して交流を進めてきた。一度行くと3時間くらいはいるのだが、合間合間に利用者のみなさんのお喋りの輪に入れてもらう。その時間の楽しさたるや。  お喋りは時空を超えてあっちこっち飛び回る。生まれた故郷の話、友達の話、西荻に移り住んできた頃の話、と思うと疎開の話、満洲での生活、途中に冷やかしや突っ込みも入り、旦那の自慢や愚痴までも。70年の時間なんかひとっ飛びだ。  また、ふとした瞬間に始まるひとり語りが心地よい。「まるまるさんって生まれはどこ?」っていうちょっとした問いかけから「あざぶじゅうばんでさ、お袋はなべしまのお姫様だったんだよ。戦争の時はさ、増上寺が空襲で燃えちゃってさ、そりゃあ何か悲しかったねえ。見ててさ涙が出てくんの、でさ、その後さ、家はのぎざかに引っ越してさ、その土地が三角でさあ……」。これもまた思い出すまま、とりとめもなく時代を前後し面白おかしく続いていく。「戦争も終わってね、外国の映画とか観るようになって、こんな田舎でグズグズしてちゃいけないって、東京に出たのよ。そ、ひとりで。看護婦の資格を持っていたからね、働けたの。そして主人と出会って、娘が二人……」  ひとり語りの間、僕は語り部の顔や手の仕草を眺めながら適当に相槌を打つ。年配の方の肌はとても味わいがある。ちょっと粉を打ったような乾いた質感、少し弛んでいてそれが表情を穏やかに豊かにする。髪の毛も白味をおびて、ちょっと差した紅や品のよいアクセサリーがとてもよい。  ものをよく見ることは僕の大切にしていることのひとつで、それは僕にできる唯一のことなのかもしれない。自分の「物語」を語っている利用者の方を見ていると、今僕に語っていることはご自身への語りかけでもあるのかな、と思うことがある。ふと遠くを見たり、小首を傾げたり。「そうよね~」と誰かへの相槌ともつかない言葉、少し目を閉じたり、指が虚空に何かを描いたり。そこには老境にあって、そこで何かを物語ろうとする人間がいる。  いろいろな出来事に出会った時に自らに問いかけて、そのうえで乗り越えたり、遠回りして避けたり、そんな時間を経てきた大人が語ると「思い出話」は「物語」へ変質していくのかな。そうだよね、半端者の「思い出話」ほどつまらないものはないもの。 (本文おわり) ----------- プロフィール ─ いせ・かつや ─ 千九百六十年岩手県生まれ。自然、人工物、メディア空間等様々な環境で発生し存在するモノやイメージが形づくる形態をテーマに、個展やワークショップを国内外で開催している。女子美術大学短期大学部教授、デザインコースメディア担当。 ─ 【ターンでの活動 】 二千十七年度より「ターン交流プログラム」に参加。西荻窪にある高齢者在宅サービスセンター「ももさんふれあいの家(二千二十一年7月からは西荻ふれあいの家)」の利用者と交流し、俳句や編み物、絵手紙などの活動を通して対話を重ねている。「ターン・フェス四から六」に参加。「第6回、第15回ターンミーティング」に登壇。 (127ページ) イワタトモコ[アーティスト] (タイトル)「地面」好きが、ターンという「海」を泳ぐ (本文) 「目には見えない静かな海に浸かりいつの間にか紙を片手に地面に立っている」  言葉の海や時間の海。ターンに参加しはじめたころに感じたのは、そんな海の中を気持ちよく漂うような感覚だった。はじめは沼のようなものではないかとおそるおそる近づいてみたところ、それはもっと心地のよいものだったのだ。  そういった感覚的な海の話ではないが、私は子供のころから実際の海があまり好きではなかった。果てしなく広がっているところが怖くてなるべく関わりたくないと思っていた。だが大人になり、海を身近に感じながら制作をする機会が増えるにつれて怖いもの見たさで海に近づいたりもして、そのドキドキ感もよい刺激になり悪くないなぁと思いはじめていた。ただ、思い切り近づいたり、自ら飛び込んだりはせずにいた。  比べて、私は地面の上が好きだ。地面に対して感じる魅力を発端とし、アーティストとしての活動をすることも多い。地球の引力によって当たり前のように地面の上にいるわけだが、そこには「私はここにいていいんだな」という安心感がある。地面から生える植物や周囲を飛び回る虫などの生き物に対する興味もきりがない。知れば知るほど面白く、これもこれで海の果てしなさにも近いかもしれないが、立ち止まりたければ地面に座ったり、寝転んだりするように立ち止まればいいし、やっぱり地面のほうが断然好きだ。  しかし、ターンに関わるようになって、私は海のことを勘違いしていたことに気がついた。相変わらず怖いことに変わりはないのだけど、ターンを通じて関わった人々や土地と出会ったときの感覚は地面の上に立っている感覚とは違い、「海の中を泳ぐ」感じに似ている。身を委ねその場の空気に揺られてみたりする感じ。そんな海の上に浮かんでいたのは様々な要素であった。  アルゼンチンの「カミノス」では挨拶くらいしか現地の言葉がわからない私に、あたかも通じると思っているかのように延々と話しかけてきた彼らの母国語スペイン語。日本で最初に交流を行った「富士清掃サービス」では公園を清掃するときに共有したルーティンやルール。特別養護老人ホーム「グランアークみづほ」では人々の心の中に残るかつての町の記憶。最後の交流先となった「ハーモニー・プリスクール・インターナショナル」では会えない環境が生んだ近くと遠くの曖昧さ。漂うものたちは、時に私を気持ちよく浮遊させてくれたり、溺れぬよう浮き輪のように補助してくれたりした。  そんな海を浮遊する中、私が自ずと手にするようになったものがある。それは紙だ。以前から身近な素材として用いてきた紙だったが、ターンの中でその紙の持つ神秘性や柔軟性により深く魅力を感じるようになった。特に大きな影響を受けたのは最初の交流でアルゼンチンに携えて行くこととなった「おりかた」だ。「おりかた」は真っ白な紙を用いてお供えや贈りものを包む日本の伝統的な礼法で、伝え手として研修を実施してくださった長田なお氏を通じて、四角い紙の中に天の理を宿してしまうような神秘性に触れ、紙を手にするときの程よい緊張感を味わうことで、各地での交流をより豊かなものにした。  気持ちを込めて折ったり、想像を膨らませるコラージュの素材として切ったり貼ったり、紙をくしゃくしゃにすることで交流中の会話も弾んだ。会えない状況で共有できなかったものを印刷して、それを交換可能にしたのも紙だ。紙の持つシンプルさと馴染みやすさはどの交流先でもちょっとした静かな時間を作ってくれていたように思う。感覚的な海に静けさを感じたのはカミのおかげかもしれない。  そんな交流を経て、私が立っているのはやっぱり地面の上だ。ひたすら地面の上にいるだけではなく海に身を委ねるような時間も楽しめるようになったのは、ターンによる変化だと思う。なんだかかいすいでびしょ濡れになって片手に紙を持ち地面に立っている、今はそんな気分だ。  これからターンしたくなるとき、気づいたらターンしているときなんていうのがあるかもしれない。そしてターンせざるを得ないときというのも必ずやってくる。そんなとき、私はどんな海に出会うのだろう。やっぱり怖いようで楽しみでもある。 (本文おわり) ----------- プロフィール イワタトモコ 千九百八十三年神奈川県生まれ。身近な自然物の観察・採集から宇宙的なサイクルを体感するような制作をするアーティスト。二千十二年の畑を舞台に展開した「サイレント・ミクサー」、二千十四年の「粟島自然観察船」等のほか、自然学校の講師と共同で森の中で子供ワークショップを定期的に行う。 ─ 【ターンでの活動 】 二千十七年にアルゼンチンの「ターン・イン・ビエンナーレスール」に参加、知的障害者支援施設「カミノス」と交流する。帰国後、公園清掃を行う「富士清掃サービス」と「ターン交流プログラム」をはじめ、利用者とコラージュを制作した。その後、二千十九年より特別養護老人ホーム「グランアークみづほ」、二千二十年より多国籍の子供たちが通うインターナショナルな保育園「ハーモニー・プリスクール・インターナショナル」と、地面をテーマに交流を実施。こうした交流の経験を通して、「ターンフェスよんからろく」で作品を展開した。 (129から130ページ) ナガオカダイスケ[アーティスト] (タイトル)歌と世界 (本文)  例えば、あなたが友達の前でうたを歌うとして、どんなことを大事にしますか? あるいは気にしますか?  何を歌うかということですか? 上手に歌うことですか? または間違えないで歌うことですか?  障害者福祉センターの「はぁとぴあ原宿」に通い始めた時でした。参加する教室で音楽の活動となり、先生のピアノにあわせて利用者さんと楽器を演奏します。  そのあと、みんなが大好きなカラオケの時間。カラオケといっても、先生が伴奏をしてくれるとても贅沢なものです。「誰が最初に歌いますか?」と先生が聞くと、誰よりも大きく素早く手をあげた方がいました。リクエストの曲名を先生に伝えると、彼はマイクを手にみんなの前に立ちます。イントロが終わるタイミングで、先生が「さん、はいっ!」と合図。ところが、彼は全然歌いません。むしろ微動だにしない。先生は演奏を止めません。 「なんで歌わないのだろう?」と思いながら、僕はその不思議な光景を眺めていました。まもなく、とても大切なことに気がつきました。彼は歌っていたのです。ただ、動かずに声を出さないだけです。良く知る「歌う」という行為とは違うのですが、歌っていることが彼を見ていると十分すぎるほど伝わってくるのです。そしてその歌を彼がとても好きであることが良くわかるのです。  自分の世界が一瞬にして溶解してしまうような、新しくなるような体験でした。  ターンでは「交流」という訪問先の施設に受け入れてもらい活動ができることで、日常の中では当たり前と思うことや、すっかり固定化されて見えなくなってしまっていることに気がつくことがあります。思いもよらない膨らみと出会いがあります。 ─ 「世界が変わる」というと、まさに今私たちが経験しているコロナ禍のように、大きな出来事によって行動や認識が変わり、制度やシステムが変更されることによって社会そのものが変容していくようなドラスティックなイメージを持ってしまいます。ただ、ターンでの経験の中で、それだけではないかも知れないと思うようになりました。  世界が新しく変わるために重要なことは、「自分の中の世界を変える」こと。「自分の世界の引っ越し」のことなのだと。そしてこの機会は、これまでアートが得意としてきた非日常にのみあるのではなく、特別な人たちによってなされるものでもなく、僕たちが生活している場所にこそあるのだと思います。みんなが等しく始められるのです。  これまで続いてきたターンの事業はひと区切りですが、これからも自発的な活動としてのターンを、自分なりに小さく弱くとも実践して行きたいと思っています。この活動の中で得られた確かな意思は、僕にとってとても大事なものなのです。 (本文おわり) ----------- プロフィール ナガオカダイスケ 千九百七十三年山形県生まれ。ウィンブルドン・スクール・オブ・アート修士修了後、国内外にて個展、グループ展による発表多数。 記憶と身体との関係性を見つめ続けながら、創造の瞬間を捉える実験的なドローイングや、映像作品を制作する。現在では、新しい建築的ドローイングのプロジェクト「球体の家」に取り組むなど、様々な表現活動を展開している。 【ターンでの活動 】  二千十六年より大田区にあるコミュニティ八百屋「気まぐれ八百屋だんだん」と交流を開始、二千十七年より「ターン・ランド」を展開。普段あまり見かけない仕事や生き方をしている「おとな」に話を聞く「おとな図鑑」や、店舗の外壁に地域の子供たちと一緒に絵を描く「だんだんヘキガプロジェクト」を行う。同時に、二千十九年より原宿にある渋谷区障害者福祉センター「はぁとぴあ原宿」と交流を開始。屋上に生えている雑草に着目し、施設利用者(メンバー)と採取した雑草の標本づくりやスケッチを行ったり、オンラインを通じてメンバーが参加者の似顔絵を描く活動を展開。「ターン・ランド」や交流の中で生まれた作品を「ターン・フェス」で展示した。また二千十七年に「ターン・イン・ビエンナーレスール」に参加し、アルゼンチンの特別支援学校に通う子供たちと交流を行った。