(76から77ページ) 白紙ページと写真ページ (78から95ページ) 対談 「ターンのターニングポイントと、未来へ受け継いでいくレガシー」 ヒビノカツヒコ[ターン監修者]かける モリツカサ[ターンプロジェクトディレクター] (リードぶん) 「ターンは定義されない。ささやかな活動を折り重ねるようにしながら常に動き続けていくもの」――固定されたものが何もないところから、この7年に渡る活動でどのような転機を迎え、アーティストや社会に何をもたらしたのかを振り返ってみたい。企画段階からターンを指揮してきたヒビノカツヒコとターンプロジェクトディレクターのモリツカサ、ターン立ち上げのストーリーから今後の計画までを語り合った。 聞き手: ハタマリア[アーツカウンシル東京] 構成、文: シラサカユリ (小見出し) 人が「せいらい持つ力」と「せいせいるてんする力」をターンと名付ける (聞き手) 「東京二千二十オリンピック・パラリンピック」の文化プログラムを先導する東京都のリーディングプロジェクトのひとつとして、二千十五年から7年間継続して活動してきたアートプロジェクト「ターン」が二千二十一年度でいったん一区切りとなります。そこで、これまでを振り返って、ターニングポイントになった出来事や、どのような成果があり、これからどのような形で受け継がれていくのかといったことを語り合いたいと思います。 (ヒビノ) ターンは「東京二千二十オリンピック・パラリンピック」を契機にはじまりましたが、オリンピック・パラリンピックの社会的な貢献を目指したプロジェクトであったということ、そこがまず大きかったと思いますね。 (モリ) そうですね。事業の前段として、二千十三年ににほん財団が、京都のみずのき美術館など4つの社会福祉法人が開設した美術館での合同企画展を計画し、その企画実施アドバイザーとなった私が、ヒビノさんに監修者としてかかわってくれないかと声をかけました。 (ヒビノ) それから、みずのき美術館のオクヤマリコさん(二千十五から二千十八年にターンのコーディネーターを務めた)をはじめ、よん館のキュレーターたちとどんな展覧会にしようかと話し合うなかで、福祉の現場には「アール・ブリュット」という言葉だけでは表し尽くせない表現や関係性が多々あるという議論になりました。そこでまず「うみからの視点」「陸から海へ」「ひとがはじめから持っている力」という言葉を引き出した。さらにそれをイメージできる言葉として「ターン」にたどりつきました。「ターン」という単語には「回転する、変化する、戻る」などというよく知られている意味に加えて、「(生まれつき持っている)せいこう、気質、雰囲気、能力」という意味もあり、「これでいこう」となったわけです。 (モリ) フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが名付けた「アール・ブリュット」は「きの芸術」と訳されていますが、特に日本では「障害者アート」を指したり、広義でも「専門的な美術教育を受けていない人」になってしまいます。そうではなく、障害の有無、世代、性、国籍、住環境などの背景や習慣の違いを超える「すべて」にかけられる言葉を時間をかけて探しましたね。 (聞き手) その合同企画展が、「ターン/陸から海へ(ひとがはじめからもっている力)」(※1)。ターンがプロジェクトとしてはじまる前年度のことですね。 (ヒビノ) この時、私は4つの施設の制作現場を見て、人間がはじめから持っている力や、その力で生きている人たちと出会った気がして、普段は感じない、新たな刺激を受けました。アーティストたちも同様に自分の力を信じて制作していますが、社会のことを気にしすぎてしまう時もあります。そんなアーティストたちがこの出会いを経験し、「施設が個性の集まりである」ということを発信すれば、施設に対する社会の見方も多様になるのではないか、と思ったのです。それで、東京芸術文化評議会で「東京二千二十オリンピック・パラリンピック」の文化プログラムとして提案して、「東京キャラバン」と「ターン」が、リーディングプロジェクトに決まりました。   (モリ)   具体的な活動として、アーティストと施設が交流を行う「ターン交流プログラム」と、現場での経験や気付きを紹介する場として「ターン・フェス」を実施しました。2年目より「ターンセンター構想会議」を開催し、それがアーティストと施設などの文化活動を地域に開いていく「ターン・ランド」へ展開しました。もともとプロジェクトメンバーの集いを念頭に置いていた「ターン・ミーティング」も、幅広い一般層を対象にしたものへ変容していきます。二千十八年には、これらの活動をずしした「ターンを創り出すプログラム相関図」ができました。この相関図ができたことは、大きかったです。  そして二千十五年の初回から、文化交流を通じて生まれたものを発表する場として開催してきた「ターンフェス」ですが、これを展覧会の形にしなかったことも良かったと思います。そこには作品未満のものがあっても良いですし、作家と会話もできます。それはヒビノさんが「六本木アートナイト二千十三」(※2)でアーティスティックディレクターを務めたときに、アーティストの人間力に期待し、「そこへ行けばアーティストと出会える」としたコンセプトを受け継いでいます。「ターン・フェス」では「アーティストが施設に行って受け取って来たものを発表する、知っているアーティストが出るから施設のメンバーが遊びに行く」という人間関係からみんなが訪れる場所になれば良いと考えていました。  また、アーティストや関係者たちが思考するなかで生まれてくる言葉を『ターン・ノート』というドキュメントに綴っていき、そこで語りきれない現象や活動を『ターン・ジャーナル』という冊子をつくって記録していきました。こうして徐々にターンの全体像が示せるようになったと思います。 (ヒビノ)   ターンでは、丁寧にささやかな活動を続けて実績を積み上げ、今後につながるレガシーを残したと思います。これから文化芸術が社会にどう貢献していくか、芸術関係者も行政関係者も認識する大きな機動力になったのではないでしょうか。分かりやすい形ではなく、すぐには結果が出しにくいことだとご理解いただき、7年間継続してくださった東京都にも感謝しています。 (モリ)   計画執行型のプロジェクトだと、費用対効果云々の話になり、思い切ったプログラムが組みにくい。ターンにとって「東京二千二十オリンピック・パラリンピック」の文化プログラムという位置づけが、結果として良い方向に働いたと思います。 (小見出し) 日本の伝統的な技術や作法を交流のパスポートとする「海外展開」 (聞き手」 小さなターン(転換、変化)をいくつも積み重ねてきたターンですが、なかでも大きなターニングポイントになった出来事を挙げていただけますか? (ヒビノ)   ひとつは、ターン2年目にして海外展開ができたことですね。二千十六年の「ターン・イン・ブラジル」で一番特徴的だったのは、交流する共通言語として、日本の伝統的な技術や作法を持っていく、ということでした。 (モリ)   伝統工芸的な技を通じて対話がはじまるし、手技を介して海外のアーティストも参戦できるだろう、と。そうした「仕掛け方のデザイン」も日比野マジックだと思います。 (ヒビノ)   ブラジルに行く以前の交流は、アーティストが福祉施設に滞在し、ひとりひとりの個性や他者との違いに興味を持ってそれを引き取って自分の表現をしていくというやりかたでした。無理して他者に接近せず、ゆっくり時間をかけて関係性をつくりましょう、という方針で。コミュニケーション能力があり、ものをつくることを急がない、人と人とのつながりを前提とするアーティストたちに声かけをして、交流先の人との関係を築いてから、じゃあ、ちょっとこんなことやってみるか、という流れですすめていました。  しかしブラジルの交流では、関係ができるまでの時間が読めない。すぐにできるかもしれないし、全然できないかもしれない。だったら日本から来たという輪郭だけでも伝わるよう、伝統技法を携えて交流することを考えたんですね。たとえばイガラシヤスアキさん(※3)は「えどくみひも」を、タキグチサチエさん(※4)は「きりこ」を学んで行きましたね。それ自体に美しさを備えているので、「知りたい」と思えばスッと交流に入れる。日本の文化に対する関心もある。ある意味、伝統技術はパスポートみたいなものです。 (モリ)   その後の海外展開でも、伝統技術が交流の主軸になりましたね。翌二千十七年にアルゼンチンとペルー、そして二千十八年にエクアドルと続いていきます。 (ヒビノ)   日本人のみならず、世界の人たちが手癖として持っている、「こねる」とか「ひねる」とか「紡ぐ」という基本的な行為の強さにあらためて気づかされました。どこの国にも土や紙、糸があるから、必ず焼き物らしきもの、そめものらしきものはあります。それをきちんと作法とし、人の行為と結びつきながら人間に携わってきた日本の伝統工芸は人に染み込む力が強い。単なる工芸品ではなく、作法や技法、自然との共生の知恵といった、考え方から趣向までがものに宿っていて、思想に近いものになっている。それを海外へ持って行くと、たとえば二千十九年の「ターン・イン・トゥクマン、ビエンナーレスール」では、ヌノシタショウゴさん(※5)がキルメスで交流したときの粘土細工が、失われたせんじゅうみんの歴史を復活させるような哲学にまでつながったと思います。 (聞き手) 現地の施設などとの交流後、その成果を現地で発表する機会を設けました。「ターン・イン・ブラジル」では、日比野さんがアーティストの言葉を収集して壁に描き、展覧会場に集まった人たちがそれに見入っている姿が印象的でした。その後の海外展開でも、言葉を掲出するという方法を取っていますね。 (ヒビノ) アーティストがその施設で交流した「時間」というものを、どう伝えればいいのか。成果物を展示すると同時に、アーティストも来場者と一緒にワークショップをしつつ、それ以前の交流の様子を映像で振り返りながら見せるのですが、視覚にうったえる映像は状況が理解しやすい反面、鑑賞者は分かった気になってしまう。「ああ、こういう空間にこういう利用者さんがいて、こういう作業をしていたんだね」と、そこで理解が止まってしまうのだけれども、実際の交流にはもっと微妙な空気がたくさんあった。些細なことなんだけれど、なるべくアーティストたちの何げない言葉を拾い集めて、現地の言葉で書くことによって伝えたかったんですね。 (モリ)   ヒビノさんが、事前にアーティストたちに、日常のちょっとした気持ちの変化を書き留めておいて、とお願いしたんですよね。 (ヒビノ)   たとえば「きりこ」で交流したタキグチサチエさんは、最初かなり苦労したんですよ。「ハサミを持たせるなんて、うちの利用者にやらせるわけにはいかない」とか、受け入れてもらえない。そんな心が折れそうな雰囲気があるなかで、あるとき、ふっとターンするような出来事が起きたのを書き留めていた。(※6) (モリ) 交流が上手くいっても行かなくても、形として残すことのできる伝統的な技術や作法は、交流におけるある種のセーフティネットにもなっていたのかもしれないけれども、それ以上に、現地の人たちへの発信力がありましたね。 (ヒビノ)   日系ブラジルさんせいのジュン・ナカオさん(※7)も、「もう無理、つくれない」と交流期間中に行ったオンライン会議で言ってましたね。自分は日系3世だけれど、あまりにもいっせいやにせいのことを知らなすぎたと。日系人の方から「日本に帰りたかったのに、いろんな事情で帰れなかった」といった、あるしゅ、悲壮感もあるライフストーリーを聞いていくと、「壮絶な人生を受け止めきれない、どう向き合っていいかわからない」という戸惑いが生まれてきたんですね。そうして苦労してきた過去を知らなかった自分が許せないというので、私も「急がなくていいから」みたいな話をして、考え直してもらったんですね。アーティストにしてみれば、現地の美術館での発表はプレッシャーもあったんだと思います。  (聞き手) そこから、ジュン・ナカオさんは、自分たちの体でかたどった金網にテープを編み込むという作品を考えました。展示会場でも、来場者がさらに編み込んでいくという形で手が加えられて変化していきました。 (ヒビノ)   最終的に作品という結果だけが会場に展示されるだけではなく、交流の過程の微妙な心の動きをきちんと伝えたいと思ったんですね。 (モリ)   ターンでは、だいしょうどんなプロジェクトでも、監修者やディレクター、アーティストも参加者も、誰もがやってみないと分からない、だからやってみる、そしてじわじわとターン(変化)が訪れるんですよね。 (小見出し」 「福祉」から「文化」へのターニングポイント (聞き手」 ターンでは「アクセシビリティ」をテーマのひとつとして打ち出していますね。 (モリ)   二千十七年の「ターン・フェス3」で建築家のババマサタカさん(※8)が、「知覚のライン」という会場内サインを提案してくれました。会場内の壁面を巡らせた手すりの上に、細く切った紙や編み込んだわら、カメラのフィルムなど質感の違う素材が置かれ、それを手で触れながら展示室をまわるというもの。ババさんご本人もリョクナイショウを患っていて、読み上げ機能で本を読んでいるといったご経験や生活を伺ったことがあり、参加のご相談をしたわけです。そのあたりからじょじょに考える機会が増えていき、ターンプロジェクトデザイナーのライラ・カセムさん(※9)の「経験や体験を積み重ねること自体がアクセシビリティだ」という言葉にたどり着きます。 (聞き手」 二千十九年の盲やろうの文化との出会いもひとつの大きなターンだったのではないでしょうか? (モリ) 二千十七年の「ターン・フェス3」でトミヅカエミさん(※10)がマダム ボンジュール・ジャンジさん(※11)とつくった《ひかりの広場》という部屋は、そのなかでは一切しゃべってはいけないというルールに従いながら、周囲の人とコミュニケーションを取るというものでした。そこでろう者の方たちが声は出さないけれどもすごく騒がしいコミュニケーションを手話でしているシーンを見たとき、障害福祉系という認識とは異なる、実際に社会に生きる障害者の文化というものにはじめて出会ったような気がした。そこで盲やろうにつながる入口を手にしたんです。  それはどういう意味かというと、二千十九年の「第7回ターン・ミーティング」には、映画監督でろう者のマキハラエリさん(※12)がゲストとして登壇されました。「ろう者とは日本語とは異なる日本手話という言語を話す、言語的少数者」であるとする「ろう文化宣言」が千九百九十五年に出されましたが、マキハラさんはその世代の方だということもあり、ろうは医学的な視点での障害者ではなくて、手話を使った共通言語を持つコミュニティなんだという考え方に立っている。そして壇上で、「聴者のあなたたちは、聞こえるという自分たちの文化をどう捉えているのか」という逆の投げかけをされたんです。一緒に登壇していたロバート キャンベルさん(※13)含め、みなめんくらったような空気がありました。 (ヒビノ)   ろう者にとっては、ろう文化が当たり前なんですよね。そしてそれは、聴者にはないもの。たとえば聴者だったらひとりずつしゃべらないといけないけれど、ろう者は同時にしゃべっても視覚的に分かるとか、聴者にはできないことができたりするわけです。マキハラさんが監督した映画『リッスン』を上映して、会場から「ろう者はダンスと音楽をどう区別しているのか」という質問が出た時、彼女は「ろう者にとってはダンスも会話も音楽も同じもの」と当たり前のように答えていました。「ダンスと音楽と言語をなんで分けてるの?」と。決して分けている方が普通だなんてことはなくて、ろう文化というものがあるということをそこで知るわけです。 (モリ)   そのあたりから私のなかで、「ターン・フェス」のつくり方をはじめとする、国内展開のアプローチを意識的に変えました。それまで我々は「ろう文化」という言葉を持っていなかった。そこから「見る、聞く、触る」というよりシンプルな単語に回帰していき、今に至ります。ターンにとっての「福祉」から「文化」へのターニングポイントです。「福祉」や「障害」のフェーズが、医療モデルや社会モデルを行き来するゾーンから文化ゾーンへと、明らかに変わりました。 (ヒビノ)   二千二十年の「第11回ターン・ミーティング」で、盲ろう者のモリアツシさん(※14)が「『さわれないもの』や『体験しないこと』は、盲ろう者にとっては無いものという状態になってしまいます。逆に『さわれるもの』や『体験できること』は、言葉とイメージが重なって理解していくということになります。ですから、実際に無いことは、盲ろう者にとっては本当に無い。実在しないということになります。おとぎ話のような話があったとしても、そのことは全部実際にあるというふうに認識してしまう」(『ターン・ノート「ターン」をめぐる言葉二千二十』より)と語っていたのも、それが彼にとっては当たり前のこと。彼自身は「文化」とは言っていないかもしれないけれども。 (モリ)   モリアツシさんの触覚の認識の強さが、我々と全然レベルが違うんですよ。見えない人の耳の力も、聞こえない人の目の力もすごい。そうすると、「聞こえない人が聞こえるようにしましょう」「見えない人が見えるようにしましょう」という更生的なアプローチではなく、見えない人の耳の力や聞こえない人の目の力のほうにアプローチして行ったほうが一緒に楽しめるし、新しい文化がつくられるんじゃないかと気づき出した。それこそヒビノさんが言っていた「ひとがはじめから持っている力」にあらためて出会っていく。そんなわけで、ヒビノさんの「福祉施設を文化施設にする」「文化施設になろうよ」という言い方はひとつのメッセージだと思っています。型にはめて「こうじゃなきゃ」となるときついけれど、みなさん流の振る舞いで「ターン」しようとしている。 (小見出し) コロナ以前から「人間りょく」に支えられていた場だった (聞き手) 二千二十年にはコロナの影響で複数の会場での展示が中止になりました。「ターンフェス」は「渾身の三密だったのに」とモリさんが悔しがっていたのが印象的でした。 (モリ) 「ターンフェス」ではトークや上映など密になるプログラムが多く、直接顔を合わせないと会話が難しい人がいたり、いろんな人が遊びに来るし、何層ものレイヤーを1カ所でやっているから密だったわけです。本来美術館の展示は、人がいない方がかっこいいんですよ。ものがきれいに並んでいるから。でも「ターン・フェス」の場合はひとがいないとさまにならないというまぎゃくの構成をしなければいけない。ピラミッドの最高峰を目指す強さとは正反対の、ある種の薄志弱行、脆弱さも積極的に受け入れていこうと思った。それを6年かけてつくり上げてきたので、ある方法論としては完成している自信もあります。コロナ禍ではそれが使えないだけで、道半ばというわけではないです。 (ヒビノ) オリンピック延期やそれに伴う予算、規模の縮小はありましたが、二千十五年から施設側の立場も考慮しながらアートプロジェクトとして丁寧にやり続けてきて、オリンピックが実施された二千二十一年にはすでにやりたいことはできていました。 (モリ)   コロナ禍の前はアーティストにその場にいてもらって、アーティストの人間力と、そこに来てくださった施設の方たちの人間力にも支えられていたと思います。そういう「場」でしかなかったとも言えますが、そういう場がこれまであまりにもなかったというのが、ターンがターンらしいところなのかなと。そこがほかのフェスティバルと違うところのような気がします。 (小見出し) アートとアーティストの新しい役割を生み出した (モリ) これまでのアーティストのゴールが絵画や彫刻などの作品をつくることだとしたら、ターンではそれとは違うところを目指しているような気がします。アーティストヒビノが思い描く新しいアーティスト像とは? (ヒビノ) 絵画や彫刻をつくる、工芸をつくる、といった東京芸術大学の教育のあり方は何も変わらないですよ。けれどもアート活動をどう発信していくかという工夫が今までなさすぎたと思うんですね。展覧会で発表してコレクターやギャラリストや批評家の評価を受けるだけでは、大学を出てから何人の学生たちが作家活動できるか。そのような形をとらなくても、アートを一生やっていく人はたくさんいて、作家活動している人たちの眼差しでもっと広く社会的なメッセージを発信することもできるわけです。  たとえばこの夏に東京芸術大学大学美術館で開催した「エス・ディー・ジーズ かける アーツ展 「十七の的のもとには芸術がある。」」(※15)では、アートを通じて心が動くことによって、エス・ディー・ジーズの目標のどれかに近づくという、行動変容のきっかけになる物語をつくりました。ターンも同様にひとつの物語で、「福祉現場+アート的視点をもつ人材」を輩出する接続詞をつくっていると考えています。今の社会が互いに必要としている領域だから、そのつなぎ方をターンを通して提案することができたと思っています。 (モリ) ターンにかかわったアーティストたちはもともと卓越したスキルを持っているのですが、作品をつくることに向けていたエネルギーを、社会参加によって周辺の関係をデザインし直すといった、従来とは違う形で発揮できるようになったのではないでしょうか。自分たちのオリジナルの仕事は片方で持っている。そのいっぽうで、施設の人たちに会って直接的な影響も受けつつ、その施設を見ている社会のめせんを察知して、そこへの問題意識がモチベーションになっているんですね。だから従来でいう、何かをしてあげるケアではなくて、その人たちが置かれている社会的な関係性を、アート活動で書き換えることができないかという振る舞いをしていると思います。  たとえば、「ターン・フェス6」で、ナガオカ・ダイスケさん(※16)は似顔絵のプロジェクトをしていました。似顔絵を描くには人と向き合わなければいけないですよね。目を合わせて時間を過ごすという、絵を描く行為の初心をストレートに出せる感覚と、それがもたらす社会的な意義に思い至ることができる。そういう時間を用意できたことは、ターンのひとつの成果だと思っています。同じ場所にずっといるわけではなくて、行き来することによって変わっていく。アーティストたちも2、3年かけてターンしていく感じがしますよね。 (聞き手) ヒビノさんは、アーティストにはどのように提案をされてきたのでしょうか? (ヒビノ) 活動の成果を「ターンフェス」で発表するとか、海外展があるとか、発表の場を意識しすぎると、展示までの作業をプロセスでやるようなことになってしまう。展覧会のことは気にせず、形にならなくてもいいから交流しようと言うこともあります。一人でできる人もいますし、不安がってアドバイスを求める人もいますし。どうディレクションするかはアーティストによりますね。 (モリ) 現場でスタッフが頭を悩ませていたのは、オペレーションの困難さです。アーティストには自由に活動してもらい、施設に行く回数も任意にしていたのですが、アーティストって、自分が興味を持って関係性ができたら、自分のリズムで施設に行きはじめますよね。そうすると作家によって回数が違ってくるわけです。それも過ごし方ですし、振る舞いでもあると思うのですが、一方ではそのことが現場の苦労を生んでいました。 (聞き手) ターンでは前例のないことに挑戦していますから、オペレーションはある程度幅を持てるようにしていたわけですね。 (モリ) もちろんアーティストが一番苦労したと思います。こちらに正解があって「上手くいきましたね。正解です」と言えるわけじゃなくて、「これどうですか?」と聞かれたら「正解かもしれないですね」と言うしかない。お互いに手探りでしたから。 (ヒビノ)  作家が自分の持っているものを供給するだけでなく、何かをもらって自身の作家活動に生かしていくことがなくては続かないんですよね。交流しながら気づいて自分の作品に生かしていくことも必要だと思います。 (小見出し) 「ターン」し続けてきたアーティストヒビノカツヒコ (聞き手) 日比野さんのそのほかの活動も「ひと」や「ひととのかかわり」をテーマとしたものが多いと思いますが、ターンと重なるところはありますか? (ヒビノ) 「他人は自分と違うものだ、分からないから不思議で面白い」という考えは昔から変わっていないと思います。たとえば千九百九十五年に東京芸術大学のヒビノ研究室で行った実験的な展覧会「テスト」シリーズがはじまって、「テスト1」では「自分と他人」をテーマにアートコミュニケーションやコミュニティデザインを提案しました。千九百九十九年には茨城県もりや市のアーティスト・イン・レジデンス「アーカスプロジェクト」のなかで「HIBINO HOSPITAL」(ヒビノ美術研究室付属病院放送部)がスタートしました。個々人がインターネット上で悩みを吐露して、それに対して担当医という形で学生がやりとりして、月に一度のオフ会でものづくりをしながら交流するという内容で、今思えば、「ターン交流プログラム」のようなことをやっていました。その間に「大地の芸術祭 えちごつまりアートトリエンナーレ」(※17)に参加することになり、あざみひらという過疎化が進む集落で「明後日新聞社文化事業部」というアイデアが生まれ、集落の方たちと朝顔を育てる「明後日朝顔プロジェクト」になり、金沢、横浜など各地の「種は船プロジェクト」に派生していく。廃校を再生したあざみひらの拠点は今では地域交流拠点とも言えて、そこに私が通えば「ターン・ランド」みたいになります。「瀬戸内国際芸術祭」で「あわしま芸術家村」(※18)にアーティスト・イン・レジデンスをしに行くこともターンとよく似ているなあと思うのです。 (モリ)   ヒビノさんは「ターンする」ことを前提にしている人なんですよね。言葉を使うこともあれば、得意な絵を使うこともあるし、メディア選択に関して自由度の高い人だから。そういう人でなければターンはできなかったとも思います。 (ヒビノ)   日本の地域から学ぶことも、ターンで日本の伝統技術や作法を携えて社会的課題のある海外の施設に行くのと同じなんですよね。伝統工芸の良いところは、人間が本能的にその行為や姿などに心惹かれるところ。理解するのではなく、感覚的にその良さが分かるから続いていると思うんですね。第一次産業もそんな伝統工芸と似ていて、田畑をつくる、魚を釣る、木を切るといった農業、漁業、林業の作業は、ほとんど人間の本能的な行動に近いところがあると思います。そうした作業を通じて、みなで共有できる、人がはじめから持っている力を感じられる時間があるんですよね。  「明後日朝顔全国会議」は、「ターン・フェス」兼「ターン・ミーティング」なのかなと(わらい)。大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭などはターンの感覚に近いディレクションで、そこに観客も集まっています。こうした様々なアートフェスのなかで、ターンと似たような風景を描いているアーティストたちはたくさんいると思うのです。 (小見出し) 定義されないターン (聞き手) 日比野さんは7年が経った今、ターンとは何かを説明するときどのような言葉で伝えていますか? (ヒビノ) ターンという言葉をつくった時も「なんだろうね」からはじまった。交流しながらこんなことかな、とみながそれぞれ思いながらも、体験した人にはなんとなく分かります。ターンに参加したオオニシケンタロウさん、ソネマイさん(※19)、イワタトモ子さん(※20)などは、ターンとは何かが体に宿っているわけですよ。そういうアーティストたちが増えていきますから、そうすると世の中も「ターンってそういうことね」って分かってくると思います。説明しにくいことが、これから特に必要なんです。我々にとっては、「ターンはこれです」と言いきれないのがちょうど良いわけです。 (モリ) ターンで新しいアーティスト像を体現した人たちが、ターンで醸成された空気に救われれば良いなと思っていますね。輪郭をつけて正体を露わにする活動をせずに、7年間多くの人の手によって活動している間にターンというのものが形づくられてきた、というのが実態かなと思います。多様さをターンという言葉で表現することで維持できた。 (ヒビノ)   先日、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのフェイスブックが、これからやりたいことを表しきれなくなって「メタ」という名前に変えましたよね。けれど、ターンはターンでずっといられると思うんですよ。 (モリ)   ターン自身がターンしているので、つかまえたと思ったらターン自体が変化していってしまうから、いつまでたってもつかみどころがないものだと思います。 (ヒビノ) ターンという言葉は変わってないけれど、毎年ロゴは変えてきましたね。ひとつには決めず、色や太さなどを少しずつ変えていて、何か変化を思わせるように。 (モリ) 柔らかな変化がロゴに託せるようになりましたね。ヒビノさんの「出会う」とか「交流する」という言葉の意味も1年ごとに微妙に変わってきていて、それがターンの大きな方向性のなかで機能していたように思います。 (ヒビノ)   「ターン・フェス」は毎回、モリさんがキュレーションしていて、ターンにつかみどころがないゆえに、ひとつの共通するフォーマットとして私のステイトメントを掲出しました(※21)。そうやってロゴだったり言葉だったりを微妙に変えながらやり続けることができたのも、大きくはターンというきちんとしたコンセプトがあったから。ターンが本当に分からないものだったら激しく変わるかもしれないですが、わりと近いところを狙って続けてきていると思います。ピタッと来ないからこそ、追いかけていられる距離感や色合いがある。大地の芸術祭関連の新聞を発行する「明後日新聞社」の基本理念である「まだ見えないけど、なんとなく見えるかな、を大切にします」「同じようなことを感じている人がどこかにいるというふうに考えたいという小さな気持ちを見つめ続けます」とも通じます。 (聞き手) ターンってある意味、言葉の運動でもあったのではないでしょうか。「ターンとは何か」を定義づけないからこそ常に言葉が動いており、また受け取る人によっても解釈が全然違う。それぞれの解釈を『ターン・ノート』で拾ってきた。定義づけないことが活動の原動力にもなっていたように感じます。 (ヒビノ)   ターンって「ストップ」っていう音とは違う。「ターーーン」って、動いているし、響き合って継続していく。その言霊を一人ひとりが受け止めたときに、それぞれが自由に想像できる。固まりきらない力を持っているターンだからこそ、プロジェクトを代表する言葉になり得たのだと思います。 (モリ) 定義していないから排除がなかったんですよ。ただし「なんでもアリだけどそうじゃない」という気持ちも、一方にはありましたけれども。 (聞き手) それぞれ別々のターンを感じた個人と個人が、改めて出会い、それを共有できるところに、もうひとつのターンのプロジェクトの意義があったようにも感じます。 (ヒビノ) 利用者さんもケアラーさんもアーティストもそこにたまたま来た人も、みんな誰一人取り残されずに、自らアートに関与しているという意識が持てる。差別がない世界はなくならないかもしれない。なくならないことも受け入れながら一緒にいられる力を持つことが「ターン」なので、分からなくても良いんだ、ずれていても良いんだと、それを受け入れ合う力が我々にはあるんです。 (小見出し) 東京都と東京芸術大学に受け継がれターンのレガシー (ヒビノ) 7年間で「ターン・フェス」、「ターン・ミーティング」、「ターン・ランド」に参加したアーティストって80人以上でしょうか。そのなかでターンがなくてもやっていける人もいますし、ターンがあることで自分の活動を発信しやすくなった人もいます。逆にアーティストによってターンを広めてもらえる場合もありますよね。東京都主催としての事業体にはいったん区切りをつけたとき、この約80人以上のアーティストたちの行き先が気になるところですね。自分で羽ばたける人はいいですが、ターンという気流があることによって活動が継続できるアーティストに、その気流を送り続ける仕組みをつくらなきゃいけないと思っています。 (モリ) 東京都ではターンで育んで来たことを東京都歴史文化財団全体のなかで展開しようという動きがはじまっていて、東京芸術大学のなかでももう少し骨太な展開をしようというところで、レガシーのリレーはできているような気がします。時代の要請とマッチしているのかもしれませんね。  具体的には、ターンのアーティストが施設に行く「交流」と、施設を文化施設にするというイメージで動かす「ランド」の部分は、名称は変わるかもしれませんが、来年も続けて数も増やせればと考えています。  もうひとつ、ターンで行われた「アクセシビリティ」あるいは障害特性にかかわる様々な課題的なところは、「ウェルビーイング」という大きな標榜のもとで東京都歴史文化財団が行っているプロジェクトのなかで吸収発展させていきます。芸術文化の力や都立文化施設の資源を活用し、高齢化や共生社会など、東京の社会課題解決への貢献を目指し、高齢者・障害者・がいこくじん・乳幼児などを対象者に「アクセシビリティの向上」と「鑑賞・創作・発表機会の拡大」に取り組むもので令和3年度より実施されています。さらにより専門的に展開するために、筑波技術大学との連携もはじめています。 (ヒビノ)   東京芸術大学は、第4期中期計画のなかでターンの展開を考えています。ターンの人材も輩出した「ドア・プロジェクト(ダイバーシティ・オン・ジ・アートプロジェクト)」が行われていますが、これは「アート かける 福祉」をテーマに「多様な人々が共生できる社会」を支える人材を育成するプロジェクトで、社会人と藝大生が一緒に「福祉と芸術」を学んでいます。大学内でも、社会貢献とアートの関わりを考えていくなかでターンの認知度も上がりました。予想以上に履修希望者が多いですよ。 ドアの履修生が「ターン・フェス」のサポーターになったり、修了生が「ターン交流プログラム」のコーディネートをサポートしていたりしています。ドアにはアートと福祉の領域をつなげたいという関心を持つ方が多いので、今後も様々な活動につながるのではないでしょうか? (モリ)  ドアはターンに特化していないので、そのなかの何人かはターンをやるかもしれないですが、ターンの育成だけではないことが、ドアのフレーム感の広さであり、用意されていることが大きいと思いますね。ドアのカリキュラムのなかに地域医療などいろいろなメニューがあるなかで、その先のことに気づかせる教育内容があり、そこで学ぶことによってターンの次を担う人たちが出てくるような気がします。今すぐ実践者になるわけではないかもしれないけれど、ターンが発したものを何らかの形で受け継ぎ、展開していく人たちがそこにいると思います。 (ヒビノ)   企業のなかでも福祉を考える必要性が出てきていますから、今までのように福祉科の学生たちだけがケアを勉強するのではなくて、美大・音大など芸術系の大学でも、ターン的・ドア的な授業が増えていくだろうと思います。すでに行われている大学とは連携して、社会的効果を実証できるリサーチやアーカイブを積み上げていくとなおさらきちんと継続でき、予算もついていくだろうと思いますね。二千十七年からは、エー・アイ・エス(アーティスト・イン・そんぽの家)で、ドア修了生や藝大の学生・卒業生がソンポ・ケアの運営するサービスつき高齢者向け住宅に1年間居住し、そこに暮らす人々と関係性を育みながら作品制作を行っています。 (小見出し」 世界規模で展開する、アートを通した社会課題との向き合い方 (ヒビノ) ロンドン大学でも社会課題を扱う専門コースがつくられるなど、社会的課題をその土地の芸術大学がその土地のやり方で考えて実施していく傾向にあります。東京都と東京芸術大学だけでなく、海外の大学機関でも同じようにやっているのは心強いというか、やらなきゃという気持ちになります。 (モリ) 東京芸術大学が世界のネットワークのなかで役割の意味を確認できているということは強いことだと思います。 (聞き手」 社会の動向が様々に変わっていくなかで、ターンは確信に変わったという感触でしょうか? (ヒビノ) そうですね。遡れば、二千十二年のロンドン五輪プログラム「ロンドン二千十二カルチュラル・オリンピアード」の主軸のひとつ「アンリミテッド」(※22)が成功したことが、東京都にとって刺激になったのではないでしょうか。 (モリ)   身体障害者のオリンピックがパラリンピックなので、身体障害者の表現を「アンリミテッド」として実施したイギリスから、日本でも文化プログラムとして「アンリミテッド的なことをやりましょう」と売り込みがあったのですが、日本には日本的なことがあるんじゃないかと考えて「ターン」が生まれたんです。 (ヒビノ)   ロンドンでは、社会の多様性を示す文化として「アンリミテッド」が成功し、社会のなかでの認識が変わったと聞いています。それと同じようなことが、東京でも今後見られるのではないでしょうか。「アンリミテッド」は演劇や映画、アートなどエンターテインメント性が非常に高いプログラムですが、ターンは習慣や風習といった文化のなかの「心と心の交流」といったところで広がっていったと思います。 (モリ)   日本的なやり方で、非常に柔らかで緩やかなフレームのなかで展開してきたので、オリンピックにこだわりすぎず、もう少し広い意味での社会のありようにターンがコミットできたという間合いが良かったのかもしれないと思います。と同時に、オリンピックを通じて、時代が「多様性」のメッセージをたくさん聞いたことで、ターンが浸透しやすい、あるいはターン自体の考えが共有されやすい土壌を生んだ。オリンピック・パラリンピックがなかったら、7年やったからといってこんなには形にはならなかった気がします。そういう意味ではオリンピック・パラリンピックのリーディング事業であったと言えるだろうし、ひとつの役目を担えたと総括できると思っています。 (対談終わり) ----------- 脚注 (※1) 「ターン/陸からうみへ(ひとがはじめからもっている力)」 二千十四から二千十五年、みずのき美術館(京都府)、とものつミュージアム(広島県)、はじまりの美術館(福島県)、わらこうミュージアム(高知県)の4会場を巡回した、にほん財団アール・ブリュット美術館合同企画展。 (※2) 六本木アートナイト二千十三 二千十三年3月23日の日没前から翌24日の日の出にかけて、六本木周辺の様々な場所を会場にして行われた、オールナイト・アートイベント。ヒビノが、二千九年より毎年開催されている同イベント初となるアーティスティックディレクターを務めた。六本木という街にアーティストたちが集い、滞在することで、その場所が持つ力を活かしたアートが創出され、またそれらを通して、夜から朝へと移ろいゆく時間が参加者間で共有されることを目指した。 (※3) イガラシヤスアキ アーティスト。千九百七十八年千葉県生まれ。ターンでは二千十五年より「クラフト工房Lラマノ」と交流を重ねる。二千十六年の「ターン・イン・ブラジル」ではサンパウロにある自閉症児療育施設「ピッパ」、二千十七年の「ターン・イン・ビエンナーレスール」ではペルー、リマの自閉症、知的障害者通所施設「セリート・アスール」で、それぞれ交流プログラムを行った。二千十七年からターン・ランド「手のプロジェクト」を開始。 (※4) タキグチサチエ ワークショップファシリテーター。千九百九十年徳島県生まれ。 「ターン・イン・ブラジル」出発前の約1カ月間、宮城県もとよしぐんみなみさんりくちょうに滞在し、東北の伝統的な切り紙のひとつである「きりこ」を習得。渡航後は「モンチアズール・コミュニティ協会」の知的障害者支援グループなどと、きりこのワークショップを通して交流を重ねた。 (※5) ヌノシタショウゴ やきものや漆を扱うアーティスト。千九百九十年広島県生まれ。二千十九年の「ターン・イン・トゥクマン、ビエンナーレスール」では、「人は土から生まれ、土に還る」という考えに基づき、滞在したアルゼンチン北部のキルメスの土を採取して、日本古来の土づくりの技術を用いた作品を現地の人々と協働で制作した。 (※6) ふっとターンするような出来事が起きたのを書き留めていた この時の言葉が、『ターン・イン・ブラジル 二千十六ドキュメントブック ヒビノカツヒコとブラジルでターンした39日間』に綴られている。 (※7) ジュン・ナカオ マルチメディアアーティスト、デザイナー、クリエイティブ・ディレクター。「ターン・イン・ブラジル」では植物の皮や繊維を編み込むブラジル先住民の籠「セスタリーア」をベースに、高齢者福祉施設「いこいの園」で交流を行った。 (※8) ババマサタカ 建築家、オープン・エー代表取締役、公共アール不動産ディレクター。千九百六十八年佐賀県生まれ。二千三年、「ちょっと変わった物件」を探す不動産サイト「東京アール不動産」を立ち上げる。二千十六年より東北芸術工科大学教授。 (※9) ライラ・カセム グラフィックデザイナー。東京大学先端科学技術研究センター特任助教。二千十九年よりターンのプロジェクトデザイナー。 (※10) トミヅカエミ アートディレクター。千九百八十五年神奈川県生まれ。ターンには、開始初期の二千十五年より、「ターン交流プログラム」や「ターン・フェス」などに継続的に参加した。 (※11) マダム ボンジュール・ジャンジ ドラァグクイーン、パフォーマー。「ターン・フェス」のほか、大田区にある「気まぐれ八百屋だんだん」にて「ターン・ランド」の一環で開催している「おとな図鑑」に参加、二千二十年の「第10、11回ターンミーティング」では読み聞かせのパフォーマンスで登壇した。 (※12) マキハラエリ 映画作家。東京国際ろう映画祭実行委員会代表。二千十九年の「ターン・フェス5」では、ろうもしくは難聴の学生を対象にした映画制作ワークショップを企画した。 (※13) ロバート キャンベル 日本文学研究者、早稲田大学特命教授。近世、近代日本文学専門。二千十九年の「第7回ターンミーティング」にゲストとして登壇し、マキハラエリ、ヒビノ、モデレーターのワタナベタスク(エディター、ライター、ジェー・ウェーブ「ラジオ ドーナッツ」ナビゲーター)と共に、「多様性のある社会を考える」というテーマで鼎談した。 (※14) モリアツシ 筑波技術大学総務課広報、情報化推進係。先天性盲ろう者として生まれる。筑波大学にて、盲ろう者の意思疎通の方法と、アイ・シー・ティー技術を用いた支援について研究した。二千二十年の「第11回ターン・ミーティング」にゲストとして登壇した。 (※15) エス・ディー・ジーズ かける アーツ展 「十七の的のもとには芸術がある。」 二千二十一年7~8月、東京芸術大学大学美術館で開催。ヒビノが監修し、東京芸術大学の学生、卒業生、教職員が参加した。教育、ジェンダー、環境などエス・ディー・ジーズに掲げられている17の目標のなかになぜ「芸術」がないのかを問いながら、「芸術はエス・ディー・ジーズに接続できるのか」を検討する試行錯誤のプロセスを提示した。 (※16) ナガオカダイスケ アーティスト。千九百七十三年山形県生まれ。ターンでは二千十六年より大田区にあるコミュニティ八百屋「気まぐれ八百屋だんだん」や原宿にある渋谷区障害者福祉センター「はぁとぴあ原宿」と交流。「ターン・イン・ビエンナーレスール」にも参加した。「似顔絵プロジェクト」とは、「はぁとぴあ原宿」の利用者と地域の人々がいかに出会えるかを考えるなかで生み出した企画。利用者との散歩中、利用者がすれ違う人に挨拶をしても、誰も返答してくれないことに気づいた経験がきっかけとなった。 (※17) 大地の芸術祭えちごつまりアートトリエンナーレ 新潟県えちごつまり地域で3年に一度行われる芸術祭。二千三年の第2回より、ヒビノが新潟県十日町市あざみひらの住民たちと朝顔を育てる「明後日朝顔プロジェクト」を開始。それに関連して、同地の廃校を本社にした「明後日新聞社文化事業部」を発足。月1回プラス号外の新聞発行、行事を通じた地域住民との交流などを行っている。また、育てた朝顔の種から着想を得、二千十年からは「種は船プロジェクト」を始動。「タネフネ」と名付けた船を造船し、舞鶴をスタートして日本海沿岸を航海させ、各地を旅しながら再び舞鶴へ帰郷するまでを追うプロジェクトとして現在も継続中である。 (※18) 瀬戸内国際芸術祭、あわしま芸術家むら 「瀬戸内国際芸術祭」は、なおしま、とよしま、しょうどしまなど瀬戸内海の島々を会場とし、3年ごとに開催される芸術祭。二千十三年よりその会場のひとつになっている「あわしま芸術家むら」は、二千十年からはじまった三豊市の文化事業で、若手作家が現地に滞在し、地域の人々と交流しながら制作活動を行うアーティスト・イン・レジデンスの拠点である。 (※19) ソネマイ 旅をしながら制作活動を行うアーティスト。千九百九十三年静岡県生まれ。「ターン・イン・トゥクマン」では、うちわの骨組みに、古着や古布を裂いたものを織り込む手法を用い、キルメスの人々と交流した。地元に自生する植物を使った草木染めワークショップも開催した。 (※20) イワタトモコ アーティスト。千九百八十三年神奈川県生まれ。ターンでは二千十七年に「ターン・イン・ビエンナーレスール」に参加、アルゼンチンの知的障害者支援施設「カミノス」と交流する。帰国後、公園清掃等を行う「富士清掃サービス」や特別養護老人ホーム「グランアークみづほ」、多国籍の子供たちが通うインターナショナルな保育園「ハーモニー・プリスクール・インターナショナル」と交流を実施。「ターンフェス4から6」にも参加した。 (※21) 私のステイトメントを掲出しました 「ターンフェス」で会場に掲示したヒビノのステイトメント。 (※22)アンリミテッド 二千十二年のロンドン五輪の文化プログラムのひとつ。ブリティッシュ・カウンシルなど5団体がパートナーシップを結び、障害のあるアーティストの活動支援を目的としたプログラム。制作資金助成、専門技能育成、上演・展示機会提供、アーティストの国際進出や国際的なコラボレーションの促進などを行った。 ----------- プロフィール ヒビノカツヒコ 二千十五年より「ターン」の監修を務める。 アーティスト。千九百五十八年岐阜県生まれ。千九百八十四年東京芸術大学大学院修了。東京芸術大学美術学部長・美術学部先端芸術表現科教授。岐阜県美術館館長、熊本市現代美術館館長。千九百ハチ十二年日本グラフィック展大賞受賞。千九百八十六年「シドニービエンナーレ」、千九百九十五年「ベネチアビエンナーレ」、二千三年から「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」、二千十年から「瀬戸内国際芸術祭」に参加。二千十三から二千十五年「六本木アートナイト」でアーティスティックディレクターを務める。平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)受賞。日本サッカー協会社会貢献委員会委員長。 ─ モリツカサ ターンプロジェクトディレクター。 千九百六十年愛知県生まれ。公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京事業推進室事業調整課長。東京アートポイント計画の立ち上げから関わり、ディレクターとして特定非営利活動法人等と協働したアートプロジェクトの企画運営や、人材育成・研究開発事業「トウキョウ・アート・リサーチ・ラボ」を手がける。「東京都による芸術文化を活用する被災地支援事業(アート・サポート・トウホク・トウキョウ)」、オリンピック・パラリンピックの文化プログラムの展開に向けた東京都の文化事業のディレクターを兼務。