オンラインでの開催に取り組み始めてから2回目となる第12回TURNミーティング。
1回目の第11回TURNミーティングに引き続き、さまざまな人が楽しめる「映像空間のアクセシビリティ」を探求し、関係者とオペレーションや構成のブラッシュアップを重ねて当日を迎えました。ゲストや手話通訳チーム含め、各々高いモチーベーションとともに会場に集い、今回もそれぞれの柔軟性を結集させて実践する場が生まれていました。配信のテクニカルチームの経験値と包容力含め、関係者やチームに恵まれていることを改めて実感しています。
今回の「『ろう文化』ってなんだろう 〜『手』で会話する?〜」をテーマにしたTURNミーティング開催に向けて、プログラムを企画し、ゲストや手話通訳者との相談から、配信や情報支援のオペレーションの調整までの対応を担いましたが、実施後改めてこれまでのプロセスを振り返った時、「映像空間のアクセシビリティ」をどれほど実現できているのかと自分自身に問いかけました。
「映像空間のアクセシビリティ」とは何か。それは、「映像空間」と「アクセシビリティ」がクロスした状態において、それぞれの専門家が備える経験値とそこから生まれる価値観が活かされ共存した状態だといえるかもしれません。ただ、各々の専門性から見える「良い」「見やすい」「分かりやすい」といったポイントは、必ずしも一致するとは限らないと思います。
今回のTURNミーティングを準備するにあたっても、関係者にとって大事なポイントを抽出し、共存させるための落としどころを探るプロセスの積み重ねとなりましたが、進めていけばいくほど、取り組もうとしていることの難しさを痛感することに。議論を重ねる中で、新しい気付きが次々と生まれました。例えば、手話通訳のろう者との話し合いの中から「(言語としての)手話の美しさが見せられたら」という発言があり、ハッとさせられことがありました。発言を正しく手話で見せる重要性を意識していても、その言語があわせもつ「美しさ」を見せるという発想がなかったからです。その「美しさ」とは何なのか、ということへの解は色々な考え方があると思いますが、「美しさ」を追究することは「心地よい形で情報を受け取り、伝え合う」ということにつながり、アクセシビリティを考える上でも大切な要素ではないかと感じています。
当日のリハーサルでは、言語やコミュニケーションに関わるいくつものタイミングの「ズレ」を調整することになりました。もし、手話通訳の最中でその通訳者の姿が画面から消えてしまうと、それは会話が途切れてしまったことを意味します。また、必要のないタイミングで文字支援や手話通訳者の姿が入ってしまっていると、視聴者は大事な情報を見落としてしまう可能性もあります。
その「ズレ」を修正していくために、そしてズレさせず繋いでいくために大切な要素とは何でしょうか。それは最新の機材や技術的なことのみならず、その現場に携わる「人」と「イメージすること」の大切さを思いました。例えば、ハードを活かし、血の通ったスムーズなコミュニケーションとして配信していくことができるかは、機械のスイッチを操作するタイミングが重要になります。画面に情報や機能を「置く」のは、コミュニケーションを「つなげていく」ために「置く」といえるでしょう。その意味で、そこに横たわるコミュニケーションの特性を頭の片隅にもちながら操作できると、機械のスイッチの切り替えのベストなタイミングが分かり、画面上に存在する複数の言語と対話をつなげていくことができるのかもしれません。
また、登壇者自身が配信画面を見た時に、必要なタイミングに手話通訳が画面に登場していないことに気が付けば、少し待ち、手話通訳者が画面に登場してから話し始めることで、手話という言語を繋いでいくことができるかもしれない。「映像空間のアクセシビリティ」を成立させるには、運営スタッフも登壇者もその場にいる全ての人が、画面上の言語とコミュニケーションの特性について思い巡らし行動することに、大きなヒントがあるような気がしています。
分野や背景が異なる人たちのモノの見方や価値観に違いが「ある」ことを出発点に、それぞれの世界をイメージし、どのようにそれらを繋いでいくのかという会話が生まれること。一方で、各々の身体や背景が異なるからこそ、互いの世界を体感として経験することができないことは多々あると思います。異なる分野の専門家たちが、それぞれの世界を最大限イメージし、会話を通して可能な限り身体化させていくこと。そして、それらのイメージをつなげていこうとすることによって、初めて「コミュニケーションのリレー」が生きた状態になるのかもしれません。
執筆:畑まりあ(アーツカウンシル東京)
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