2019年に金町学園との交流が終わって、自分の交流の在り方を自問自答したり、ちょっと悩んでいた。
TDU・雫穿大学に行くようになって、また、このTURN交流プログラムの意義を見出していけるようになったとおもう。
よい交流にしたいと、ちょっと気負っていたのかもしれないけど、毎回のミーティングが講義のようなかたちになって、共同制作のために必要な映像の話とはいえ、このままでいいのかと、思案しながら回を重ねていった。
然しながら、その自分の優柔不断さが、この活動日誌を最初にして最後のものとしてしまいました。
TDUのメンバーは、社会人として仕事をしている傍ら(という場合もある)、いろんなことを意欲的に学んでいる、すてきな人たちで、ぼくの20年前の映像の仕事を観ていてくれた。そして、こうして呼んでもらえて、交流することができて、ほんとうにありがとう。
令和2年度から3年度へ、1年間にわたり、TDUのメンバーとの共同アニメーション作品の制作に取り組んできた。
この活動で一番に考えていたのは、この作品の制作過程とその表現を、彼ら自身に観てもらえたらということだった。それを、お互いに実感できたらと願っていた。
対話を重ねながら、それぞれの幼少期の記憶を題材とすることを提案していった。みんなで意見を出し合って、それぞれの絵の動画を一本のアニメーションに編集して、最初のVer.0の映像作品とした。
つづいて、この映像作品の発表の在り方を考えていきたいと話しあった。不肖ながら、ぼくの作品の視点や感覚をメンバーに伝えていって、追加のエピソードや音楽をつけるなど、彼らの観点で、よいものに仕上げていきたかった。それは、メンバーが表現したいことを伝えてくれたことについて、共感していく時間でもあって、本当に楽しかったし、たくさんの気づきがあった。
この共同は、記憶の中の関係性を多面的にとらえなおして、映像作品の観点とすることで、その発露を映像表現としての抽象的なコミュニケーションの在り方を探ることでもあった。
ぼくがそういう風に作品を通して、だれかと話したかった、社会での関係性をつくりたかったからでもあるけれど、作品の表現方法の可能性をひろげ、制作へのモチベーションをあげられたらと、自分の作品のみならず、様々な作家の作品を紹介していった。
それぞれの記憶の風景を描くことで、お互いの主観と想像を間接的に、映像言語として共有できたらという想いがあった。
この作品を観た誰かも、人生のひとつの要素として、彼らの映像表現の象徴性に、本質的な何かを感じるかもしれない。一人の表現者として、自分もこのことが体現できているかどうかはわからないけれど、ぼくらと誰かの人生の交差点に立てる道標のように、いつか、この共同作品を懐かしく思い返すとおもう。
TDUでは、一年ごとに自分研究の発表があって、その紀要である「世界を自分に取り戻す」を読んだ時に、自分の人生を主体的に生きているかという問いかけに、内心忸怩(じくじ)たる思いがあった。
世界を自分に取り戻せと、いわれているようにおもって、彼らの真摯な言葉や姿勢から気づいたことや学んだことが、最後の最後で、自分の果すべき役割、全体の演出や編集の意図を示してくれたとおもう。彼らへの敬意をあらわしたいとおもって、この命題を共同作品のタイトルに引用した。アニメーション作品「世界を自分に取り戻せ」は、「TURNフェス6」で、8月18日の13時半から7分間、東京都美術館の講堂で上映された。
ぼくは、人生の命題を棚上げして、作品の概念や指向性を構築しているとおもう。
自分自身と長らく向き合えないでいるが、結局、自分の問題と作品は根深く連動しているということだ。
けれども、東京都美術館の講堂での上映という好機に際して、TURN交流の発表の場という対外的な成果のプレゼンテーションとして、彼らとの交流の可視化ができていたかということに疑問がわいた。この交流の本質を、作品のテキストとしても、体現できていたのかという内省があった。その自覚から、最後まで編集にこだわっていたけれど、そのせいで、TURNのみなさんにも多々ご迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。
ぼくのPOV(主観撮影)的なアニメーション表現方法をTDUのメンバーと共同したが、同時に、その方法で彼らとの対話の時間を損なったのかもしれない。
この作品を鑑賞した方々はどんな感想を持つだろうか。この作品の意義や価値観をつくることにおいて、まだまだ、やれることがあったことは否めない。
だから、この作品を観てくださった方々の思いがけない観点に、これからも気づかされることがあるとおもう。
ふたたび、彼らとの好機を得ることができたら、さらなる向上心をもって、共同制作をしたいと願っている。
最後に、この交流に関わってくれたTDUの全メンバーへの感謝として、非公開のオールスターキャスト版映像の最後に、カーテンコールのような短いアニメーションを描き加えた。
本編が終わって、みんなの手描きのキャプションがあって、エンディングロールが流れたあと、黒画面で終わるとおもいきや、彼ら自身を投影したキャラクターたちが、黒い緞帳(どんちょう)から顔を出して、一列にならんで、まなざしをかわすという感じで登場する。
描いている途中で気がついた。カーテンコールの場面を描いているとおもっていたけれど、緞帳の下や隙間から舞台の光がもれている。つまり、彼らは緞帳の前で客席に向かって挨拶しているのではなくて、本編を終えて、幕の内に戻ってきたところを描いたんだとおもった。
なんだか、終わったねという挨拶のようでありながら、またねという約束のような場面を想像していたから。
彼らの記憶の物語を発表した舞台は社会との接点なんだけれど、想像の緞帳の向こう側とこちら側の、表も裏もない場所を、ぼくらは日々行き来しているとおもう。
だから、そのどちらもそれぞれの日常に帰る場所、いつどこでだれかがなんて、もうわからない、決められない、心の中の居場所なのではないかと気がついた。
この社会で地域でコミュニティで、どれだけの場所を必要としているか。
自分たちの関係者から、いままでもこれからもとどいていた、昔日の遠い輝きをおもう。