初対面の誰かと会う時。まだ、相手の中にも自分の中にもお互いの事が未完成な状態。へたしたら(?)路上を行き交う多くの人の中にたちまち紛れ込んでしまうかもしれない。でも、初対面であるということは、やはり路上を行き交う多くの人とは違う。顔を合わせているからだ。しかし、お互いを「未だ、知らない」でいる。
私は、この「はじめまして」の感覚が好きだ。自分が認識し得る「わたし」の姿が、相手にとっては未だ分からないものだから、一瞬自分がぼやけたような状態でいられる。だから、少しの間自分の背負っている「わたし」の輪郭を留守にして、ふらっと出かける気分になれるのだ。
「はじめまして」の状態からだんだん慣れてくると、面白い事に、人や環境に対して馴染みのトーンみたいなものが生まれてくる。例えば、あいさつのしかたや世間話をする時の調子、リズム、話題を振る文脈などだ。そして、ひとたび「いつもの」調子やリズムと「違う」トーンになると、何かが「おかしい」と感じたりもする。これはTURNプロジェクトの活動で初めて板橋区立小茂根福祉園の門をくぐった時に、自分が最も困惑したことの一つでもあった。
「おかしい」と思う事だらけだった。あいさつをする度にしりとりをしようと言う人。今朝は何を食べたか、今夜は何を食べるのかをいつも聞いてくる人。単語と単語を繋ぎ合わせた謎の造語で話しかけてくる人。彼らは、自分にとっての「あたりまえ」を大きく逸脱した存在だった。自分にとっての「あたりまえ」が激しく揺さぶられた。相手が「おかしい」のか、他所から来た自分が「おかしい」のか、どう受けとめたらいいのだろう、そんなことばかり考えていた。今は、「どれもあり」だと思えるようになった。自分の想像の範囲に当てはまらないことが「あたりまえ」になった。だから、小茂根福祉園に行く時は、いつもウキウキする。いつも「はじめまして」の気持ちになれるから。
2021年12月8日、板橋区立小茂根福祉園とともに進めてきたパフォーマンスプロジェクト「こもね座」によるオンラインイベントを行った。東京2020オリンピック・パラリンピックに向けた文化事業として展開してきた「TURN LAND」の最終日。この日が、最後の本番だ。
「さぁ!かけ合いカードは、ありますか!?」案内人が声を張る。
(カード:画面いっぱいに、文字のみで書かれている)「石ちゃんとパパイヤスズキ かんさんとこきんとうさんくるよ。(男)ケイタ」作者は、一文字、一単語ずつ、力強く読み上げた。別の参加者の画面にもカードがかざされた。
(カード:線だけで描かれた、緩やかなカーブとジグザグした軌跡)「スイッチバック*」
*山登りの技術の名称。山の面を斜めに折り返しながら登っていく。
「おっと、さらに応戦してきた!」案内人の声に力が入る。
(カード:画面を対角線状に無数の細い線が重なり、人物の輪郭が線の中を遡上するように見える)「川です」
「そうきたかー!」参加者から歓声が上がる…
上記はイベント本番中に交わされたこもね座メンバーと参加者(お客さん)とのやり取りのワンシーンだ。解説をつけよう。
イベント専用のキットを使用して、参加者自らも手を動かしながら鑑賞するオンラインプログラムを開催した。キットには、こもね座メンバーによって事前に制作された「手紙」が入っている。イベント上演中は、この「手紙」を介して、参加者側からも「返信」をすることが求められ、文通のようなやり取りを通して楽しむ内容になっている。さらに、手紙用の用紙とは別にカードのようなものが同梱されている。これが、先のト書きにあったやり取りを発生させる素材となっている。
「かけ合いカード」と名付けられた黄色いポストカード版の厚紙。ここには、オンラインの画面上に飛び交う「手紙」のイメージやその「返信」の事柄に対して、別の誰かがイメージや物語りの拡張を促す機能がある。例えば、ある人が「列車に乗って旅行をする」という話を描いて、画面に見せたとする。画面上に現われた絵や描いた作者の語り口調などを見聞きしている内に、別の誰かの中にふと「温泉旅行でおでんを食べた」記憶が浮かび上がる。すると、「温泉旅行/おでん/食べた」などの絵や言葉がカードに描かれ画面に現われる。イメージや物語の脈絡や前後関係は、気にしない。相手の文脈を汲み取る必要もない。あくまで、受け取った側に浮かんだ事柄、つい思い出してしまった記憶、なぜか連想してしまった空想や妄想、などなどがかけ合いカードとして画面の相手に投げかけられる。始めに手紙を画面に見せた本人にとっては、まったく予想もつかない展開が他者のイメージの中に膨らんでいく。自分が発したイメージや言葉に、たくさんの知らないイメージが繋がり、その場で即興的に変化していく様子が楽しめるというものだ。
本番中、私はあるこもね座メンバーのかけ合いカードに注目していた。彼の差し出すカードパフォーマンスは、演目全体の流れにとっても重要な役だった。彼の出すカードには、相手からのイメージを彼の文法によって、大きく飛躍した形で返答する特徴がある。それによって、カードを投げかけられた側はもとより、そのかけ合いを目撃した周囲の参加者にとっても、一瞬狐につままれ、かと思えば彼によって切り替えられた路線の上を急転して進んでいく疾走感を味わう。さらに、彼の言葉と語り口がリズムを刻み、画面越しにその様子を見ていても、身体が引っぱられるような吸引力がある。ひとしきり彼からのかけ合いカードを浴びると、嵐が過ぎ去った後のような脱力感が爽快にさえ感じる。
彼には、自閉症の特性があるのだそうだ。彼と小茂根で会うとよく、「◯◯の◯◯ちゃん」など、二つの単語をつなげた言葉を投げかけてくる。または、名詞と名詞を連結させて「ブチギレシアター」「迷宮モンスター」「パックンコミックス」など造語のような言葉も送ってくれる。私は、しばしば彼の発する言葉の音(おん)やリズムが気になった。何度も聞いている内にふと気づいた事があった。それは、彼の中にどこかぐっとくる言葉選びの判断があるのでは?と思ったのだ。でたらめに言っているのではなく、彼の中でこれだというものが選ばれて発せられている気がした。だから、ものによっては聞いているこちら側にあまり引っかからないワードもある。一方で、一度聞いたら忘れられないハイクオリティなものもある。
彼の中で、日々磨かれているのかもしれない…実は、彼を見ていたことが「かけ合いカード」の発想にもつながった。こちらの「あたりまえ」を揺さぶり、「いつもの」トーンやリズムが崩れ、「文脈」のステージを降り、常に「はじめまして」から始まる人と人の出会いを思い描いた。
突拍子のなさ。かけ合いカードの醍醐味だ。でも、それだけが続くと疲れてしまう。だから、他のカードが別のトーンで切り込む。ねらってできるものではないし、ねらい過ぎてしまうと返って野暮になる。だから、自分がイメージしたことをパッと掴まえる力がいる。それも、あまり触り過ぎずに。新鮮さが求められる。
こもね座は、かけ合いカードの稽古を何度もして、今回のオンラインライブに備えた。「◯◯の◯◯ちゃん」の彼が日々私に向けてきた言葉が実は磨かれていることを知ったら、生半可ではいけないぞと思えたのだ。
イベント本番が始まって前半が過ぎるまでは、参加者のみなさんはかけ合いカードの扱いに困惑していたように見えた。しかし、こもね座からのカードに熱が入り始め、リアクションが飛び交い、空気が温まってくると、参加者の方からもカードが飛ぶようになった。何かのネジがゆっくり外れていった。どの人のカードも、画面の向こう側から、その人の色が滲んでいたように思う。そして、人の匂い/香り立つものさえあった。さらに、かけ合いカードにかけ合いカードで応戦するという場面もあった。こうなるともう迷走状態である。痛快な迷走だった。
「お話」を読み進めるには、ページをめくる。ページをめくる内に、お話がつながっていく。でも、今回こもね座でやったことは、全てのページが1ページ目だった。全てのページが「はじまり、はじまり」で始まるお話だった。
イベントが終わり、ふと本番中の場面場面が脳裏を横切った。参加してくれたみなさんが描いていたカードや漫画の絵が思い浮かんだ。直接、対面で会ったわけではないが、不思議と参加してくれた方一人ひとりの「質感」みたいなものが自分の身体の中に刻まれていることに気づいた。それこそ、あるはずのないその人の匂いを鼻の中に錯覚するほどに。
直接会ってはいなかったが、確かに「他者」の何かに触れたのだと思う。そして、その「何か」と戯れるような時間が自分の身体の中にあったのだと思う。
今回参加してくれた方と、今度どこかで会ったら「はじめまして」と言えるだろうか。頭(理屈)で考えることと、身体が記憶していることがちぐはぐだ。
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