活動日誌

ザ・東京ヴァガボンド x レッツ 第6日目

2017.8.8

テンギョウ・クラ

交流先│

  • 認定特定非営利活動法人クリエイティブサポートレッツ

今日は朝からスタッフ高林さんとレッツの原点であるタケシ(愛情を込めて敬称略します)の電車旅に同行させてもらった。
僕はタケシのような重度の知的障害を持った人と外出した経験が無かったので、未知の旅に対する不安と好奇心が胸の中に渦巻いていた。
冷静沈着な高林さんと一緒なのでタケシがパニックになるようなことは無いと分かってはいたが、電車やお店でタケシと出会う人たちの反応が気になった。
この五日間をアルス・ノヴァで過ごしていた僕は、障害を持つ人たちにとっての「理解者と共にいて安心できる場」しか見ていなかった。
今日はタケシが「ホーム」を出て、人生の中で一度も障害を持つ人たちと触れ合ったことのないかもしれない人々に出会う場を目にすることになる。
彼らは時と場を選ばず自由奔放に振る舞うタケシの行動に理解を示してくれるだろうか。
中には心ない言葉や行為で拒絶してくる人もいるのではないか…
「障害を持つ人」と「障害を持たず障害を持つ人との出会いがない人」との間で起き得る関係がどのようなものになるか、しっかり見届けようと思った。
結論から言うと、僕が旅の前に抱いていた不安は、全て僕自身の考え方に原因があったのだと思い知らされた。
アルス・ノヴァのような障害を持つ人が通う場所や彼ら自身の家だけが彼らにとっての「ホーム」ではなく、この社会全体がそもそも障害を持つ人持たない人全てを含めての「ホーム」であるという至極当たり前の事実が、自分の無知さによって僕には見えなくなっていた。
例えば、タケシが所構わず地べたに座り込んだり、お気に入りのカンカンを窓や壁などにぶつけて音を鳴らす行為は、小さい子供ならやることだし、行きたいところに何が何でも行こうとしたり、おとなしくじっと席に座っていられないのも子供はそういうものだろう。
そういう行為をやっている子供であれば、周りの大人は迷惑そうにしたとしても「まぁ子供のやることだから」という態度で受け入れることが多いだろう。
それが受け入れられず我慢がならない人はその子や親に注意をしたり、その場を去ったりするだけだ。
タケシの場合、見た目が大きいので子供だからでは済まないが、悪気があってやっているわけではないことは明らかだし、人に危害を加えるような攻撃性もないわけだから、もし嫌なら相手が子供の時と同じようにそこを離れるかすればいいわけだ。
詰まるところタケシと出会う側の人たちに特別な心構えはいらないということになる。
体が小さく力も弱い子供たちが大人用のインフラの中で困っていれば人は当たり前に彼らの手助けをするように、タケシが困っていればコミュニケーションが取りづらく戸惑うかもしれないが、それでも力を貸してくれる人は当然いるだろう。
社会の人たちのリアクションは、自分にとっての迷惑行為に対しても、明らかに相手より優位な立場に立った状態に対しても、対象者を選ばず結果的にはほぼ同じになるのだ。
どちらかが、もしくはお互いが傷付く可能性がある状況は、自分が理解できない相手を恐れ、嫌う人間とその対象になり得る他者が出会った場合だろう。
タケシの行動を理解できず、受け入れられず、拒絶しその場から排除しようとする人には今回の道中で出会わなかった。
むしろタケシの遊びを応援して「どんどんやっていいんだよ」と言ってくれる人もいた。
あからさまに不快感を表す人は社会の中でもごく一部だろう。
と言うよりも、自分が理解できない存在を受け入れず、拒絶し排除しようとする人たちにとっての問題は、障害のあるなしとは無関係かもしれない。
英語の言い回しで ”Haters gonna hate anyway.” というものがある。
「いずれにせよ嫌う奴は何でも嫌う」というニュアンスになるが、理解できない存在を拒絶し排除しようとするのはその人の思考の問題であり、そうなるのはそのヘイト対象になった人に100%の責任があるということはまずありえない。
宗教、人種、性別、国籍などヘイターズにとってはどんな要素もヘイトの理由になるからだ。
つまりタケシに対して人が抱く精神的な拒絶感というものも、たまたまそれがタケシが抱える障害がトリガーになっただけで、障害を持っていること自体が究極的直接的な差別の原因になるわけではない。
誤解を恐れず言うならば、ある意味で人は障害のあるなしに関わらず平等に優しく厳しいのだ。
障害を持っていても一緒に笑い涙してくれる親友はできるし、障害を持っていなくてもイジメに合い孤独に追い込まれる人もいる(どちらの例も僕は実例として知っている)。
もちろん差別の対象になったりする頻度は障害のあるなしが理由で増えたり減ったりするだろうし、一度一度の体験によって心が傷付く深さも違うだろう。
体の小さい幼児期だけ、体の弱った老齢期だけというわけではなく、一生誰かの介助が必要という意味では障害を持つ人の周りにいる人たちにコストが発生することも事実だ。
だから決して障害を持っていることがそうでない人と比べて生き辛さの差はないはずとは言わないけれど。
それから、どうしようもない人の心の動きとは別に、障害を持つ人たちがそうではない人たちに比べ困ることがあるだろう。
それは社会のインフラ設備だ。
アクセシビリティと言い換えてもいい。
今回の旅でタケシが遭遇した問題は、例えば電車とホームの間のスペースに片足が落ちる、常にエレベーターやエスカレーターがあるとは限らないので階段の上り下りが増え体力を消耗する、大人二人が入って楽におむつを替えられるスペースを確保したトイレが圧倒的に少ない、手すりのない急な階段が所々にあって苦労する、など。
ただ、今これを書きながら、これらの問題は誰かの付き添いを必要とする小さい子供や足の不自由なお年寄りもやはり同じように抱える問題だと気付いた。
うーん、これはますます社会の中で障害を抱えた人の生きづらさが分からなくなってきた…。
僕にはこのことを考えるための経験も想像力も圧倒的に足りていない。
タケシとの旅は本当に楽しかった。
タケシが嬉しそうに笑うと移動中の気遣いやストレスなど吹き飛ぶし、タケシが「一緒に来て」と僕の手を引っ張った時には彼の友達になれた気がしてとても嬉しくなったんだ。
僕はタケシと一緒に暮らしていないし、アルス・ノヴァのスタッフではないから、気軽に何かタケシについて言える立場では勿論ない。
ここで一つ言えるのはタケシとの電車旅を通して、社会における人の心というものをいつも以上に考える機会ができたということ。
ひとまずタケシとの電車旅の話はこれで終わるけれど、タケシとの心の旅はこれからも続いていくと思っている。
この場を借りて、この旅の機会を与えてくださったタケシのお母さんでありレッツの代表でもある久保田さん、旅を無事に完了させてくれたスタッフの高林さん、そして温かく僕たちの出発を見送り、帰りを迎えてくれたアルス・ノヴァのスタッフ皆さんに感謝します。

© Arts Council Tokyo