活動日誌

ザ・東京ヴァガボンド x ハーモニー

2017.8.30

テンギョウ・クラ

ハーモニーという名の施設は、世田谷上町の駅前にあった。
向かいにある常連客をやたらと大切にする中華料理屋でお昼を食べてから、
午後に始まる全員参加のミーティングを見学させてもらいに行った。
僕が伺った水曜のミーティングでは、利用者さんたちの近況報告やハーモニーの看板商品となっている
「幻聴妄想かるた」第三弾の制作が行われている。

「幻聴妄想かるた」とは、ハーモニーの利用者さんや関係者の皆さん、そして最近ではかるた作りワークショップに参加したお客さんたちや学生さんたちが体験した不思議な出来事を、本人やその場の人たちが描いたイラストでかるたにしたものだ。
その内容はシュールでユーモラス、思わずじーっと見入ってしまう奥深さがある。

ハーモニーに通う利用者さんたちは、程度によるがほぼ日常的に幻聴や妄想と付き合っている人たちだ。
僕自身にも妄想癖があると思うが、妄想している自分を認識できているし自分の妄想が現実だと思い込むことは今の所は無い。
しかしハーモニーの皆さんにとっての妄想は、脳内で全くの事実となって怒涛のように彼らの心身に影響を及ぼすことになる。
そのために日常生活に支障をきたすことになり、他者とのコミュニケーションに問題を起こすこともあるだろう。

だが、だがである。

ハーモニーの皆さんを(多分)苦しめている妄想の内容が、それはそれは楽しいのだ。
まるで聖書の創世記かと思うような壮大なスケールで皆さんの妄想が暴走していくのである。
時に美しく、時に悲しく、僕たちが夢に見たかもしれない風景がそこに広がったかと思えば、
途端に見たことも聞いたこともない景色の中に放り込まれている。
彼らの脳内でどのようなストーリー展開が起きているのかはそれこそ神のみぞ知るのだろう。

「今、僕の目の前で語っているこの人の話は一体どこまでが本当でどこまでがそうではないのか?」

多分「本当」という概念は「互いの約束」を根幹に据えた文明的コミュニケーションにおいては重要なことかもしれない。
しかしハーモニーで起きているコミュニケーションにとっての「本当」という概念は、
誤解を恐れずに言えばもっと一方的な「信仰」というエッセンスを多分に含んだものに思える。
どこまでを信じるべきか。

短い滞在中ではあったが、僕はハーモニーの皆さんとの会話の中に心地良いスリルを感じていた。
そのことを伝えると、ハーモニーの施設長である新澤さんが仰った。
「一日中、妄想と言われる世界にいる人でも、その人にその人らしくここにいてもらえるように皆んなで工夫しながら過ごしています。」
これは今の日本の社会が直面している問題と根源的に通じ合うことだと思う。
どのような個性であっても、その人にその人らしくそこにいてもらえるようにそれぞれのコミュニティの皆んなが環境を作れたら、
どんなにストレスの少ない社会になるだろう。
他者への理解と寛容、そして共にいるという状況を楽しむ姿勢。
ハーモニーという施設名の由来を聞き忘れたが、ハーモニーで起きていることはまさに
ハーモニーそのものであると思わずにいられない訪問となった。

最後に、ハーモニーが入っている場所はかつて飲食店のスペースだったということで奥に厨房とカウンターがそのまま残っていて、
今も利用者の皆さんがお昼をいただく場所になっている。
そのカウンターが生み出す雰囲気がなんとも言えず味わい深い。
利用者さんたちがそれぞれのペースで静かに食事をしている姿を厨房のシェフが温かい眼差しで見守っているモメントは個人の有りの侭の在り方を尊重するハーモニーの理念を象徴している気がして、僕は食事中の皆さんの邪魔になって申し訳ないと思いながらもついカメラのシャッターを切り続けてしまったんだ。

© Arts Council Tokyo