活動日誌

ザ・東京ヴァガボンド×たまりば

2017.10.27

テンギョウ・クラ

交流先│

  • 大田区立障がい者総合サポートセンター

“たまりば”は毎週金曜の夜に大田区の障がい者総合サポートセンター・さぽーとぴあの4階で発生している(第3金曜日のみ大森のカフェ・スペースCで開催)。
発生と書くと誤解を生むかもしれないけれど、“たまりば”とはその表現が一番しっくりくる有機的な集合体(余計にややこしいか)なのだ。
訓練や作業が目的ではなく、来たい人が来てやりたいことをやっている。
一人一人が自分の意志で他者と場を共有しに集まっている、カフェや居酒屋のような空間。
金曜の夜だけあって、そこに流れる空気はとても明るい。
個々の就労状況によるだろうが、ほとんどの人たちにとって一週間の勤務を終え親しい仲間たちとホッとひと息つける憩いの場になっていて、あちこちから「あぁ、やっぱりここはいいなぁ」という安堵にも似た声が聞こえてくる。

就労移行支援を受けて外で働き始めたばかりという女性は「一人でいると不安になることもあるけれど、ここに来ていろんな人と話していると元気になれる」と言っていた。
それぞれがそれぞれの思いと向き合いながら過ごした社会での緊張やストレスを、心身からスッと手放せる場所。
スペースの一角で飲み友達が集まって和やかにお酒とおつまみを楽しんでいる。
別の一角では、真剣な眼差しでカードゲームに取り組む一団からの熱気が伝わってくる。
奥からは、駅のホームに流れる発車チャイムでどの駅の何線かを当てるゲームで盛り上がっている若者たちの弾ける声。
テレビ番組に見入る人、漫画を読み耽る人、CDプレーヤーで懐メロを聴く人。
ざっと見渡して参加者は20名以上だが、趣を異にする個人やグループ達がゆるやかにそして賑やかに場を共有していて、さながら異文化共生リビングルームのようだ。

“たまりば”にいる人たちはふらっとやって来た僕に対してとてもインクルーシヴだった。
みんなおしゃべりが大好きで話も面白いのでとても楽しかったし、僕が遠く及ばないような記憶力と集中力を持っている人がたくさんいて驚かされた。
場の使い方はいたって自由だが、もしコミュニティとして問題が発生した時は、みんなで話し合ってその場の全員が気が済むような形での解決策を探す。
そんな“たまりば”を見ていると、“健常者”と呼ばれる人々の社会ではコミュニケーションがどんどん雑になり、対話で解決可能な問題を感情論で争いに劣化させてしまう事実に複雑な思いを抱かずにいられなくなる。
「丁寧なコミュニケーション」ってなんだろう。。

“たまりば”で巡り合ったモメントの中で印象に残っていることがある。
僕の眼の前である人が夕食をとっていた。
その人が僕の隣に座っている人に何かを話しかけたのだが、話しかけられた人は気がつかなかったのか、返答せずにそのまま席を立ってしまった。
話しかけた当の本人はそれを気にすることもなく食事を続けた。
見ているとこの目の前の人は時々誰彼ともなく声をかけるのだが、どうやらこの人自身は返事を求めて話しかけているわけではないようだった。
「コミュニケーション未満」という言葉が頭をよぎった。
複数の人の間で意思の疎通、情報の伝達がなされる行為をコミュニケーションとするなら、この人の独り言ともつかない話しかけはコミュニケーションが成立する前の段階と言える。
でもそのこと自体はこの人には重要ではなく、その場にこの人と他者が存在し、この人は確かにその他者に向かってのアクションを起こしている、そのことがこの人には大切な事実のように思えた。
自己承認欲求にまみれる現代社会において、コミュニケーション未満とも取れるこの人の他者への働きかけが刺激的に見えたのを覚えている。

“たまりば”で起きているコミュニケーションは、川みたいなものかもしれない。
川はすべての水が同じ方に向かって流れているように見えるけれど、中に入って流れに身を委ねると実際はいろんな方向に水流が発生していることに気づく。
ある部分の水は左側に流れ、ある部分は右側へ、またある部分はその場で渦を巻いていたり。
それでも川全体では川下に向かってすべての水が共に流れている。
一人一人は好きなように時間を過ごしているけど、その場にいるみんなでスペースの共有という大きな流れに身を委ねている“たまりば”の面々。
個人の自由とコミュニティとしての繋がりが矛盾していないことの心地よさがそこにはある。そのことこそ“たまりば”がそこに集う人々をホッとさせ、元気にさせる源なんだと感じた。
僕はまたあの心地よい川の流れに漂うために“たまりば”へ遊びに行こうと思ってるんだ。

© Arts Council Tokyo