現地のノイズ・ガイたち(ガブリエル、ロベルト、ダニエル)とノイズ・セッションをした。ダンサーとして大西健太郎さんも参加。
爆音に包まれながら、ノイズの性質について考えていた。
近代の音楽美学において「ノイズー騒音」は、楽音(ミュージカル・トーン)と二項対立で考えられてきた。音楽の中からノイズは排除/阻害される存在で、音楽は楽音のみで構成されるというのが当時支配的な考え方だった。でも、19世紀末から20世紀初頭にかけて音楽の概念が拡張されていって、インダストリアルなサウンドーそれまでノイズとして捉えられてきた音も楽音としてみなされるようになり、やがてジョン・ケージという実験音楽の巨人がノイズだけの「音楽」を発表し、音楽にコペルニクス的転回をもたらす。
今回の演奏の中で、僕が出した音(ノイズ)が果たしてどこにいるのか、どう影響しているのか、正直聴き取れなかったが、そこには「僕の音はみんなの音とつながっている」というある種の安心感も存在していた。20世紀半ばの「転回」以降、ノイズも音楽と同じく包摂のメディアになった。
ここエクアドルにおいて、僕らは異邦人ーノイズの一種なわけだけれど、そこに転回は訪れるのかしら、とか、そんなことも考えてみる。セッションを終えた後の連帯感・高揚感を思い出して「訪れるの待つのではなくて、起こさなくちゃ」とか、思ったりもする。
(『TURN-LA TOLA』、エクアドル・キトにて)