西洋音楽は調律「tuning」というある種の制度を基準に音楽の構成を試みる。それが機能主義的だと批判されたのが20世紀半ば。アメリカの実験音楽家たちが、非調律(調律外)の音を基調にした作品を作り始める。屋外の環境音、人の話し声、モーターエンジンなどのインダストリアルサウンド…etc.。それらの作品はその場で生起するイベント(音楽)ー「いま・ここ」という感覚に重きが置かれる。
僕が現在制作している≪Sinfonía(シンフォニア)≫はこのどちらでもない。いわば調律と非調律の間ー「擬調律」とでも言えるだろうか。確定と非確定、作曲と即興、その間を浮遊する中で僕が目指すのは「いつか・どこかで」という感覚。
この擬調律というのは僕の考える、制度の解体/変革のための方法論のひとつだ。確定的なメルクマールに対し浮遊した行為(アンチテーゼみたいなカッチリしたものではなく)をぶつけることで予想できない結果、視座ー新たなコンテクストを得ることが出来る(かもしれない)。それは、いつか・どこかでー以前にどこかで体験したことの「反復」かもしれないし、あるいは、いつか・どこかでーいずれ来る未来の「予見」。昨今、音楽学者クリストファー・スモールの「musicing(ミュージッキング)」が話題(僕は、これは相当楽観主義的だと思うけど)だが、これと同じく音楽をミクロ・ソーシャルな形態として捉えることが前提とされる。
(『TURN-LA TOLA』、エクアドル・キトにて)