「あ、あの人は確か…」
東京都美術館で赤い電動車椅子に乗った明るい笑顔の女性を見たとき、僕は記憶と共にこみ上げてくる親しみを禁じ得なかった。
日本滞在中、僕は時々東京の谷中に店を構える友人たちに誘ってもらい彼らの店の軒先でのんびりハンドドリップコーヒーを淹れていたのだが、ある日彼女がその前を通り過ぎたことがあったのだった。
その時彼女とは挨拶程度の言葉を交わしたくらいだったが、知的でいて飾らない彼女の笑顔は、僕の記憶の中に彼女の車椅子の赤色のようにヴィヴィッドな印象を残していた。
その彼女が僕も参加していたTURNフェス3の会場に来ていたのだ。
思わず駆け寄って声を掛けた。
「あの、一度谷中で会いましたよね!?」
「あぁ、はい!」
その変わらない人懐っこい笑顔に嬉しくなった。
彼女の名前はライラ・カセムさんといった。
ライラさんは日本生まれのイギリス人、東京藝術大学のデザイン科博士課程を修了し、現在は東京の大学で研究員として勤めながらグラフィックデザイナーとしても活動している。
彼女のライフワークは、普段デザインをするにあたって見過ごされやすい人々とともにデザインをし、彼らのエンパワメントにつなげること。
僕がTURNの交流プログラムで東京の福祉施設を訪問させてもらっていることを話し、後日改めて会おうということになった。
数日後に再会したカフェで、彼女が足立区の福祉施設とコラボレーションをしていることを話してくれた。
その福祉施設が、社会福祉法人あだちの里「綾瀬ひまわり園」だった。
ライラさんは「綾瀬ひまわり園」で定期的にアート活動の講師をしながら、施設の支援スタッフとともに利用者の社会参加と経済自立につながるアート作品の制作と商品づくりの開発に取り組んでいる。
そのことを知って、僕はどうしても「綾瀬ひまわり園」のアート活動を見学したくなった。
このユニークで才気溢れるデザイナーと福祉施設の利用者さん達のコラボレーションはきっと素敵に違いないと直感したからだ。
「TURNの運営本部に相談してみるから、もし出来たら『綾瀬ひまわり園』に連れて行って欲しい。」
そう伝えると彼女は喜んで提案を受け入れてくれた。
数日後にはTURN事務局からOKが出て、僕は「ザ・東京ヴァガボンド」として綾瀬に向かうことになった。
訪問初日に降り立った綾瀬駅。
知らない駅ではない。
と言うより懐かしい駅と言った方が正確だろうか。
ちょうど30年前、僕は一年ほどこの駅を使って近くの都立高校に通っていたのだ。
その高校のすぐ横を流れていた綾瀬川、「綾瀬ひまわり園」もまたその川のすぐ側に立っていた。
ライラさんに伴われTURN運営本部のスタッフさんと一緒に佐藤施設長に挨拶してから、昼食後に行われるアートクラスを見学させてもらった。
教室代わりに使われている部屋に入った瞬間、僕は感じた。
「あぁ、ここには自由の風が吹いている。」
午後の穏やかな陽光が大きな窓から部屋に差し込んでいた。
利用者さん達はお気に入りの場所を見つけてそれぞれの創作活動に取り組み始めている。
のびのびとした雰囲気が心地いい。
ライラさんを中心にスタッフの皆さんが利用者さん達の間を回って声を掛けたりしているのだが、そこにはアート活動という名前から想像されるエデュケーショナルな雰囲気はあまり感じられない。
ライラさん達は利用者さん達の自発的な創作行為を見守り、完成を共に喜び、その作品の持つ力に純粋に胸を打たれている。
スタッフさん達が時にファンのような眼差しで利用者さん達の制作シーンを見つめているのが印象的だった。
「綾瀬ひまわり園」のアート活動には、利用者さん一人一人が持つ感性にスタッフの皆さんが共感し、サポーターとして個々の作業の姿勢に寄り添うことで、利用者さんの身体的な繰り返しの作業が何か新しいものを形づくる行為となり、その行為の結果が作品の完成という形で祝福されるという驚きと喜びの循環があった。
利用者さん達を見ていて感じたのは、集中し持続して行われる創作行為というものは、安心と快適さを組み込んだ馴染みの身体の動きを必要とする、ある意味では定型化された儀式のような形をとるのかもしれないということだった。
上体を前後に揺さぶり続けながら、ティッシュを精巧に丸めて作った自作スティックの先端に視線を集中している人。
大抵は近寄ると追い払う仕草をするのだが、折を見てスタッフさんや他の利用者さんに声をかけてグータッチを求める人。
まるで鳥の羽で宝石を撫でるように、静かに静かに色鉛筆で順に色を変えながら画用紙の一角に線を引いていく人。
一瞬だけクラスにやってきてすごい勢いでクレヨンやペンを使って画用紙に書きなぐり(ランダムに描き出された曲線のシンフォニーは観る者を惹きつけて止まない)、風のように去っていく人。
「先生、うちの弟が血ぃ吸ってくるんだよ、困っちゃうよ。何とかしてよぉ、痛いんだ。」
目が合うとそうぼやいてくる人が描き出すペン画は、独特なフォントの文字と不思議な絵の一期一会コラージュだ。
集中して絵を描いている間、眉間に深い皺を寄せて修行僧のように見える男性は、絵が完成すると本物の僧侶さながらに絵の前で静かに、しかし眉間には皺を刻んだまま合掌していた。
その際スタッフさんも一緒に合掌しているのを見て、この行為は彼の作品完成時の大切なけじめとして認知されているのだと思った。
利用者の皆さんそれぞれに決まった動きが習慣になったものがあり、それが彼らの心身を安定させる大事な個人の文化のようになっている。
心身に落ち着きや心地よさをもたらす定形行為というのは僕もあなたも日々シチュエーションに合わせて行っているものだが、「綾瀬ひまわり園」の利用者さん達が創作という行為を持続する際には、その定形行為が個性的な儀式としてユニークかつ力強い形でその場に立ち現れてくる。
ライラさんとスタッフの皆さんは、利用者さん達が彼らの心身に宿ったアートの発露を気持ちよく表現として発現させ、彼らの創作欲求を無理なく発散もしくは昇華させるために、個人の文化を尊ぶ環境をしっかりと作り出していた。
だからこそ綾瀬ひまわり園のアート活動はコミュニケーションの風通しが良いんだと思う。
「綾瀬ひまわり園」で学んだ出来事で特に印象に残っていることがある。
個性的なアートクラスの面々の中にとても物静かな女性がいた。
話しかけてもカメラを向けても表情や言葉による反応があまりなかったように思う(僕にはそう見えただけでスタッフさん達が見たらちゃんと反応していたのかもしれないけれど)。
ある日、アートクラスに参加している利用者さん達が午前中の仕事の時間に作業しているところを見学をさせてもらえることになった。
その物静かな女性も皆に混じって黙々と割り箸を袋に入れていた。
が、しかし。
アート活動では穏やかにのんびりと絵を描いているように見えた彼女だったが、仕事中の彼女は体の動きがまるで別人のようだった。
非常にテキパキとした動作で立ち回り、顔の表情も凛々しく自信に満ちて、部屋の中で誰よりも率先して作業を行っていた。
僕はそのギャップに強い感銘を受けた。
アート活動は心の赴くまま自由に個人の作業を行える場所だ。
それに対して午前の時間は決められたルールの中で周りと共に教えられた仕事をする場所。
誇らしげに作業をこなしていく彼女を見ながら、彼女にとっては対極にあるどちらの場所も自己の尊厳を輝かせる機会として必要なのだろうと思えた。
佐藤施設長はじめ支援スタッフの皆さんが、どの利用者さんにも輝けるモメントが必ずあるように毎日のスケジュールを実践されていることは、「綾瀬ひまわり園」で出会う利用者の皆さんの充実した顔つきを見ていると明らかだった。
今回はライラさんとの縁でアート活動を中心に見学させていただいたことで「アート」そのものについても考えさせられる機会となった。
「アート」とひと言で括ってもその行為に対する一人一人の動機は千差万別だ。
単純に気持ちが良い衝動発散なのかもしれないし、苦悩の果てに止むに止まれず生み出す心の叫びの表現かもしれない。
もしかしたら創作行為をしている本人にとっては、それが「アート」かどうかは本当のところ重要ではないのかもしれない。
それでも人は、社会や世界から「アート」と定義される行為をいつの時代も、それこそ人類が誕生した時から続けてきたとも言える。
常に人間を惹きつけて止まない「アート」と呼ばれる行為とは一体何なのだろうか。
「綾瀬ひまわり園」の訪問最終日にそんなことをぼんやりと考えていたら、毎週毎週床のスペースに大きく広げた布のような素材にひたすら色を塗り重ねていた若い男性が、「完成!」といきなり僕達の目の前で叫んだ。
ある時はグリーン、ある時はイエローに彩られていたその大きなキャンバスは、無数の色を重ねられた結果、何色ともつかない、しかしそこに無限の煌めきを秘めた黒っぽい空間を、優しい午後の日差しが照らし出す食堂に異様な存在感で横たわらせていた。
そのサイズの大きさと制作に注ぎ込まれた時間ゆえ唐突に訪れたかのように思われた彼の作品完成を目の当たりにした僕達は、ある共通した興味を抱いたはずだった。
「タイトルは何?」
皆の心の声を代弁するかのようにライラさんが訊いた。
「宇宙!」
「そっか!やっぱりそうだよねぇ。」
ライラさんも僕も素直に納得した。
本当かどうかは知らないが、この世界に存在するすべての色を同じ量だけ混ぜていくと最後は、黒色に近づいていくという話を聞いた事がある。
もしそれが事実であるならば、黒はこの世界のすべての色を飲み込んだ色だと言える。
この世界のすべての存在を飲み込んで立っている宇宙が暗黒色をしていることはそれを暗示しているとも言えないだろうか。
この世界の始まりも終わりも内在しながら今、ここにある宇宙。
男性が一色一色塗り込め続けてきたキャンバスに、その瞬間、小宇宙が生み出された。
その時、僕は少しだけ分かったような気がしたんだ。
生きとし生けるものすべてが永遠に繰り返されるこの世界の生と死のサイクルの一部として一生を終える運命の中で、個の存在として何かを真の無から生み出しそれを完全に作り上げたのちにその生滅のサイクルを終了させるという、自然世界のシステムの中ではもはやイリュージョンでしかないかもしれない行為が、僕達人間にはもしかしたら可能な行為として許されているのだとしたら。
それを人類は「アート(「非自然」という本来の意味も含めて)」と呼ぶのかもしれないと。
ところで「綾瀬ひまわり園」の食堂に宇宙を生み出した若者は、その直後から小さな木片をボンドでくっつける作業に没頭し始めた。
まるでそれまでの何週間に渡る神々しい作業など全く存在していなかったかのように、完成させたばかりの作品には目もくれず。。
あぁ、やっぱりここには自由の風が吹いている。