「わかり合う」って本当に必要?カテゴライズしないことから始まる未来のコミュニケーション
私たちが普段、何気なく行っている「コミュニケーション」という営み。言葉による会話やメール、身振り、絵、手話などまで、方法論はさまざまですが、その内容や手法をあらためて問い直し、可能性を広げようと考える機会はあまり多くありません。
そうしたなか、「未来を切りひらくコミュニケーションって!?」と題した第8回TURNミーティングを、5月12日(日)、東京藝術大学で開催しました。TURNミーティングは、毎回TURNに関連するテーマの当事者や実践者等をお招きし、意見を交わすトークイベントです。
今回は、「ヘラルボニー」代表で、あらゆる人々が会話の土台にすることができる「未来言語」の開発に関わる松田崇弥さん、多様な立場の人たちがひとつのテーマについて自由に語り合う「哲学対話」を実践する哲学者の梶谷真司さん、TURNのプロジェクトデザイナーのライラ・カセムとTURN監修者の日比野克彦といった、コミュニケーションのあり方に継続的な関心を抱いてきたメンバーが登壇。
深い交流を妨げてしまう「カテゴライズ」という問題から、「わかり合うことは本当に必要なのか?」といった根本的な議論まで、さまざまな角度からコミュニケーションの現在と未来が語られた、このイベントの模様をレポートします。
「いまのコミュニケーション」を疑うということ
この日のTURNミーティングは、大きく分けて二部構成。松田さん、梶谷さん、ライラが登壇した前半では、「現代におけるコミュニケーションの傾向」をテーマとしたトークが行われました。
まず、議論の冒頭では、それぞれの簡単な紹介と問題意識が語られました。
デザイナーとしてさまざまな社会の現場で活動し、今年からTURNのプロジェクトデザイナーに就任したライラは、多人種のルーツを持ち、身体に障害を持つ当事者でもあります。彼女は、誰もが生活に必要な最低限のものにアクセスできる権利や、誰もが社会のキープレイヤーとなるべきだ、という考えを大切に活動してきました。
そんなライラは、今回のテーマ「未来のコミュニケーション」についてこう語ります。
「どうすれば、そうした世界をつくることができるのか。今後の世界共通の課題は孤立だと考えています。人は、自分の考えや思いを発揮できる場所を探しているものです。しかし、とくに障害者と呼ばれる人にはその選択肢が少ない。そんななかで、異なる背景を持つ他者との新しいコミュニケーションの方法を探ることは、孤立の解消につながると考えています」。
一方、哲学者の梶谷さんは、参加者がひとつのテーマで自由に語る「哲学対話」の取り組みを通して、新しいコミュニーションの場をつくってきた実践者です。2012年、ハワイの学校でこの試みに触れた梶谷さんは、さっそくそれを日本で試します。驚いたのは、引っ込み思案と言われる日本人も、ある条件さえ用意すれば盛んに話をするということでした。「みんな喋ること、考えることが好きなんですね」と梶谷さん。
哲学対話では、次の8個のルールを大切にしているといいます。
① 何を言ってもいい。
② 否定的な態度をとらない。
③ 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。
④ お互いに問いかけるよう心がける。
⑤ 知識ではなく、自分の経験に即して話す。
⑥ 話がまとまらなくてもいい。
⑦ 意見が変わってもいい。
⑧ 分からなくなってもいい。
「これを言ったらどう思われるか」「変に思われないか」……。哲学対話では、こうした議論のハードルを取り払い、参加者が「自分の言葉」で意見を言える環境づくりが目指されています。興味深いのは、「話がまとまらない」や「分からなくなる」など、普通は対話においてマイナスとされる側面が、肯定的に捉えられていることです。
こうした既存のコミュニケーション観への疑問は、松田さんの活動にも通じます。
2018年に「ヘラルボニー」を起業した松田さん。背景には、4歳上の自閉症の兄の存在があったと言います。「障害者にお金が回るシステムをつくれないか」。そんな思いからヘラルボニーでは、障害者の作品をファッションアイテムや工事現場の塀など都市景観に応用して、その価値を社会につなぐ事業を行ってきました。
そんな松田さんが取り組んでいるのが、「未来言語」という実験的なプロジェクトです。このプロジェクトでは、日本語が不得意な「言語難民」や知的障害のある方、ろう者など、多様な背景を持った当事者たちが交流するワークショップを通して、どんな人でも使える「100年先のコミュニケーション」の創造が目指されています。
「辞書で『言語』という言葉を調べると、『音声や文字を用いて伝達する手段』という定義が出てきます。しかし、現在の言語の定義は不完全だと考えたらどうか。実際、いま手話や点字は言語のメインストリームには含まれていませんが、『未来言語』ではこうした周辺的な言語をつなぐことで、新しい言語をつくろうとしています」。
「カテゴライズ」の罠。豊かな交流のために必要なこととは?
前半の議論のなかで、三人がとりわけ注目していたのは、コミュニケーションの可能性を妨げてしまう固定概念や「カテゴライズ」といった問題についてでした。
たとえば梶谷さんは、哲学対話で訪れたある学校で、先生から事前に「問題のある子がいるから気をつけて」と言われた経験を明かします。しかし、その後行われた対話からは先生が言った「その子」がどの生徒かわかりませんでした。そこで実施後、あらためて聞くと、「その子」とはむしろ人とは異なる発想で議論を盛り上げていた生徒であることがわかったのです。
「ここから感じられるのは、問題はその子自身ではなく、普段の授業の設計の仕方にこそあるということです」と梶谷さん。「話者と聴衆がはっきり分かれた場では、違いのある子は喋れなくなる。そこで哲学対話では、輪になって話すことを大事にしています」。
こうした固定概念は、どうして生まれるのか。松田さんは、福島県にあるアール・ブリュットを専門とする「はじまりの美術館」で一般の参加者とともに行った、作品が生み出される現場をめぐるツアーでのエピソードを話します。
「はじめ、参加者のみなさんは、目の前の表現者を『障害を持つすごい人』とカテゴライズして接していました。けれど、彼らと時間をかけて交流するうち、ツアーが終わるころにはすっかり『〇〇さんがすごい』と、固有名での会話になったんですね」。
これについてライラは、「社会や人との接点が奪われたとき、『問題のある子』や『障害者』というカテゴリーが生まれるのではないか」と指摘します。そして、自分自身が体験したあるユニークな経験を紹介しました。
普段、車椅子を使って生活をするライラ。あるとき、車椅子を車に載せるトレーニングを積んでいないタクシーの運転手に出会います。怒ることもできるなか、彼女はその運転手に対して、「では一緒に車椅子を乗せるトレーニングをしてみませんか?」と提案。
「すると、最後には自然と彼と普通に会話ができるようになったんです。その意味では、むしろその運転手がきちんとしすぎた技術を持っていなかったことは、良かったかもしれません」。
面白いのは、ライラと運転手に一種の摩擦が起きたとき、結果的により深い交流が生またということです。運転手に「障害者にはこう接するべき」という知識があれば、その手順で進められるだけで、会話は生まれなかったかもしれません。
他方、松田さんは、岩手県の「るんびにい美術館」で、文字をつなげて書くという個性を持つある表現者に出会いました。周囲はその癖を正そうとしますが、ある先生が個性を認めて自由にさせたところ、その人にしかつくれない作品が生まれたと言います。
これを受けて梶谷さんは、「アートでもスポーツでも、つまらない育て方がある」と語ります。「文字をつなげて書くことを止めさせ、決まり切ったことをやらせる。そこに意味があるのかと問わないといけません」。
「哲学対話をしていると、先生からよく『対話がうまくいったか?』と聞かれます。でも、そもそも『うまくいくべき』という考え方が無意味だと思う。偏差値の高い学校を訪れると、みんなそれらしいことを語るけど、自分の経験から生まれた言葉が少なくて面白くないことも多い。それなら学級崩壊しているクラスの方が、『先生の話がつまらない』という意思表示ができています。うまくいくかいかないかは、重要ではないと思います」。
わかり合えなくても「一緒にそこにいること」の可能性
後半の議論には、TURN監修者の日比野克彦も参加。会場の声も聞きながら、「未来のコミュニケーションに必要なポイントとは」というテーマでトークが展開されました。
前半の感想を質問された日比野は、トーク前の顔合わせの際、ライラから自身の著書にサインの代わりに似顔絵を描いてほしいと頼まれた梶谷さんが、それを断っていたというエピソードを紹介。
「するとライラが、『うまいかどうかは関係ないんでしょう?矛盾してません?』と(笑)。梶谷さんも『絵が苦手』と、自分をカテゴライズしてしまったわけですね」。
日比野のこの話には、梶谷さんも思わず苦笑い。しかし、このエピソードにも表れているように、人はコミュニケーションをとるとき、どうしても他者の評価を気にしてしまうものです。では、どのように「評価を外す」ことができるのか。
日比野は、自身が大学の新入生に課している「インタビュー・ドローイング」という課題を紹介しました。新入生同士が会話をしながら、20分ごとに相手を入れ替えてお互いの絵を描いていくこの課題。最初は顔の表面にとらわれて描こうとする学生たちも、その作業を繰り返すうち、自分の印象を交えながら相手の絵を自由に描き始めると言います。
この話を聞いたライラは、「自分のいろんな見方が、絵や会話を通して見えるものになることが重要なのでは。肩書きやカテゴリーから入ると、どうしても自分を統一的なものとして捉えて、そのなかで生きないといけないと感じてしまう」と話します。
さらに日比野は、最近気になるコミュニケーションのあり方として、「相手を傷つけないようにしている」という点も指摘しました。「以前は喧嘩しないと友達になれないという感覚があったが、いまは相手が求めるものに合わせて会話する。嫌われないように話すことが求められる時代には、コミュニーションも変わらざるを得ないですよね」。
こうした言語以外の伝達の方法、あるいは対話の正解のように感じられる「わかり合うこと」に対する疑問は、後半の議論のなかでとくに注目されていた視点でした。
この日、観客として来場していた菊永ふみさんは、聴覚に障害を持ち、「未来言語」の取り組みにも参加しています。そんな彼女から、「コミュニケーションを諦めていた」という話を聞いたライラは、普段誰もがトイレや非常口で見かける「ピクトグラム」という簡単な形態を用いた伝達の方法が、1964年の東京オリンピックで初めて導入されたことを紹介。そして、「言語は変わり得ると意識できると、楽になるのでは」と話します。これを受けて菊永さんも、「未来言語は、障害者で良かったと思える言語にしたい」とコメント。
このやりとりを聞いた日比野は、TURNの一環で南米を訪れるなかで、「紐をよるとか土をこねるといった造形の基本の動作や、その奥にある『何かを伝えたい』という感情は国の違いに関係なく共有できると感じる。それが未来言語では?」と語ります。
一方で梶谷さんは、「わかる」という言葉に疑問を投げかけます。
「他者が自分の話を理解したのかは、究極的にはわからない。ならば、ただ頷いているだけでも対話は成り立つと思います。むしろ重要なのは『一緒にそこにいる』こと。人と交流をして『違う』と感じることも、コミュニケーションのひとつですよね」。
この発言について松田さんも、哲学者・鷲田清一さんの「対話の可能性」(せんだいメディアテーク2013年度自主事業「対話の可能性」序文)という文章を紹介。「鷲田さんはこのなかで、わかり合えるという前提に立つと、わからないときに対話の場はなくなる。しかし、わかり合えない前提に立てば、『一緒にいる』というコミュニティは保たれる、といったことを書いている。この視点はとても重要だと思う」と話します。
コミュニケーションの未来を探るなか、「人が理解し合えるのか」という根本的な問いにまで話題が及んだ今回のトーク。最後はライラによる、「わからないことまで楽しめるようになるといい。『〇〇だから』とカテゴライズせず、人それぞれという態度を持てるようになるとコミュケーションのあり方も変わると思う」という発言で締められました。
コミュニケーションの凸凹から、より深い対話は始まる
こうして、約2時間におよんだTURNミーティングは終了。ちなみにこの日のトークの内容は、今回初めてTURNミーティングに導入された「グラフィックレコーディング」という方法によって、会の進行とともに壇上の大きな紙の上に記録されていきました。イベント終了後、その紙を覗いてみると、この日交わされた幅広い話題やコメントやイラストがびっしり。
最後に、トークを終えた登壇者たちにそれぞれの感想を尋ねました。
日比野による「造形の基本的な行為や伝えたいという思いは、国の違いに関係なく共有できる」といった話が印象的だったという松田さん。「未来言語でも、粘土のようなものを使いながら新しい実験ができるというヒントをもらいました」と話します。
同じように梶谷さんも、「哲学対話には言語を使っているという制約があること」を感じたと言います。「アートにはそのあり方を拡張してくれる可能性があるな、と。もちろん言語が意味を担うものである以上、言葉をゼロにはできませんが、喋ること以外の部分でコミュニケーションできることの大切さを、今回はあらためて感じました」。
一方ライラは、何度も挙がった「カテゴライズ」という問題に注目。「みんな、〇〇の人はこうだというカテゴリーによって、コミュニケーションをスムーズに行おうとしますよね。でも、本当はそこに収まらない凸凹な部分に、深い対話が始まるポイントがあるんじゃないか。そうしたことは自身の体験からしか学ぶことができない。人間は曖昧なものだということを、今後の活動でも伝えていきたいです」と話しました。
次回の第9回TURNミーティングは、今年11月17日(日)に開催予定。さまざまな人たちが集まって関心を交わし合うこの取り組みに、ぜひご注目ください。
執筆:杉原環樹
写真:鈴木竜一朗