僕がアフリカへ向かう直前、TURNフェス3に参加していた聴覚障害を持つパフォーマーそしてアートディレクターでもある友人マリーからあるリクエストを受けた。
「向こうに行ったら、アフリカで使われている手話のことやアフリカン·デフカルチャーのことを学んで教えて欲しい。」
その時点での僕の予定は、飛行機5便を乗り継いで東京からジンバブエの首都ハラレに向かうということだけ。
ハラレで何をするか、どれくらい滞在するのか、ハラレの後はどこへ向かうのか、何も決めていなかった。
マリーのお陰で、アフリカでやることができたことはラッキーだった。
ジンバブエに入った僕は、ハラレのデフスクールで彫刻を教えているアーティストとの出会いを皮切りに、ジンバブエ、ルワンダ、ボツワナでデフスクールやデフセンターを訪問し、それぞれの国で使われている手話に触れ、デフエデュケーションの様子を少しではあるが学ぶことができた。
自分に今まで縁の無かった手話の文化にダイブし、手話は本来聴覚障害者のためだけにある特異なコミュニケーションではなく、ジェスチャーという人間の共通言語の一つであることを体験した。
半年間のアフリカ滞在を終えてから最初のTURNの交流プログラムで伺わせてもらったのが、聴覚障害を持つ子供たちが共同生活をしている金町学園だった。
東日本で唯一の聴覚障害児の入所施設であり、前身である昭和8年発足の東京ろうあ技芸学園から合わせて80余年の歴史を持つ。
初日にまず迎えてくれたのは濱崎学園長。
濱崎さんはかつてスリランカに赴任して現地の障害者教育の環境改善に取り組んでこられた経歴もある福祉のエキスパートだ。
僕も以前スリランカで教師をしていたこともあって、現地での暮らしについて互いの楽しい思い出話をすることができた。
濱崎さんと話していると、眼差しや言葉から揺るぎない大らかさ、強さ、優しさを感じた。
金町学園は数年前に閉園の危機にあり、それを知ったたくさんの支援者によって寄付が集まり、とりあえずの存続が決まったという経緯があった。
クラウドファンディングが成功した時、学園で暮らしている一人がこう言ったという。
「まさか自分たち障害者のために、世間の人たちがこんなに力を貸してくれるなんて思いもしなかった」
この言葉に濱崎さんは衝撃を受けた。
「私たちはこの子たちに一体今まで何を教えてきたのだろう」
金町学園には障害を持って生まれてきたために家族から虐げられた過去を持つ子供たちも暮らしている。
親や親戚から自分自身の存在を受け入れてもらえないという体験をした子供たちの社会に対する不信感こそ、濱崎さん始め金町学園のスタッフたちが最も克服しようと戦ってきたものかもしれない。
学園長の部屋のドアにランドセルを背負った一人の少年の写真が貼ってあった。
濱崎さんに尋ねると、現在金町学園で暮らしている男子だという。
彼も家族からのネグレクトを受け学園にやってきた。
初めの頃はコミュニケーションがままならず人に唾を吐きかけたり暴力的になったりということがあったらしい。
「まさか自分の写真に唾は吐かないでしょう。だからここにその子の写真を貼ってあるんです」
そう冗談ぽく笑って、濱崎さんは慈しみ深い目をその写真に向けながら、今の彼は朗らかな少年に成長していると話してくれた。
僕が交流した三日間、一番の遊び相手がその少年だった。
彼は好奇心の赴くまま、本に夢中になったり水遊びで大喜びをしたり僕にお気に入りのポケモンを教えてくれたりした。
この少年との時間で忘れられないモメントが二つある。
彼は発話ができるがこちらが慣れるまでは聞き取るのが難しい。
まだ出会ったばかりの日に彼が作った歌を歌って聞かせてくれた。
子供らしい澄んだ歌声だったが、その時、同じく学園で暮らしている少年の姉が彼女自身も歌うようにしながら隣で歌詞を僕に教えてくれた。
親から離れて金町学園という家で暮らす姉と弟の絆に触れたような気がした。
こちらが少し感傷的にすらなるような、本当に美しいモメントだった。
そしてもう一つは、その姉が学園の他のメンバーと口論になりそうになった時、少年が二人の間に入って喧嘩を仲裁したモメントだ。
金町学園への訪問は初回と最終回が二ヶ月ほど空いたのだが、金町学園に来たばかりの頃の不安定だった振る舞いが想像できないほど、目の前の彼は日々成長しているようだった。
彼と過ごした時間はとても短いものだったが、一緒に鉄棒をやったり、おもちゃの注射器で鼻の中に水を入れ合ったり、年の差を感じない楽しい時間を共有できた。
TURNフェス4にも他のメンバーたちと遊びに来てくれたのだが、たくさんの人たちに囲まれていつもより大人しく、僕が横に行くとスッと手を握ってきた。
不安だったのかもしれないが、僕はなんだか嬉しかったよ。
そういえば金町学園にはとても居心地の良いグラウンドがある。
滑り台と、ブランコ、それから鉄棒が奥に並んでいる。
大きく開けた真ん中部分は子供たちが全力で駆け回れる広さ。
そして傍には木登りが楽しめる小さな木々。
金町学園のグラウンドは、立つとスーッと心が落ち着く。
子供たちの安心して遊んでいる姿がとても絵になるグラウンドで、僕もいつしか裸足になって一緒に走っていた。
交流最終日、日中は学校に行っていて出会えなかった金町学園で暮らす中学生や高校生と一緒に夕食を取る機会をもらった。
手話のできない僕とは筆談が中心のコミュニケーションになるのだが、お互いの目や口や顔つきで交わされるシンパシーがコミュニケーションには余程重要なんだと思った。
彼らにとって僕のようないい加減に生きている大人は珍しいらしく、僕が伝える人生観や今までの暮らしに最後は皆んな頭を抱えていた。
「この人頭おかしいよ」と首をかしげる若者たちを見ながら、僕は大人としての役割を果たしてやったぜと心から満足していたんだ。
若いうちに出来るだけ変な大人と出会っておくことこそが、大人になっていく過程で小さな価値観や社会の常識に閉じ込められず、自分のやりたいことをやっていく力を養うために必要だと僕は自分の経験を通して確信しているからね。
最後に、金町学園にとって今現在東日本で唯一聴覚障害児たちが安心して暮らすことが出来る「家」としてその責務を果たしていくことは、濱崎さん、スタッフの皆さん、金町学園を支える人々にとって非常に大変なことかもしれないが、皆さんが強い思いを絶やさず金町学園での日々を送られていることが伝わってきた。
ここで成長していく子供たちの屈託のない笑顔がいつまでも輝き続ける日常が守られるよう、心から願っている。