活動日誌

もう、みていないし

2019.2.4

松本力アーティスト

いよいよ、金町学園を訪ねることになった。
はじめに、職員室に挨拶にうかがったとき、姉弟が喧嘩でもしたのか、静かだけれど、力強い、まなざしで主張しあっていた。歳月をかさねた木造の校舎の、板張りの廊下をすすんでいくと、天井の高い素敵な食堂があった。本棚にたくさんの本、オルガンやテレビ、彼らの活動や目標を紹介する記事が掲示板に貼られていた。ここで暮らすみんなが集まる居間としての空間で、小さな子や中高生たちと共に夕食をとった。彼らは視線を交えながら、それぞれの時間を過ごす。
都会で一喜一憂する日常を過ごしているのは同じかもしれないけれど、聾文化の現場に臨んで、旅先のように異邦人である緊張感。一期一会な旅愁のように、一人一人の時間が流れていることを実感した。

この2日前に、第7回TURNミーティングに参加したとき、登壇された映画作家の牧原依里さんの言葉から、気づかされたことがあった。ぼくにとっての共時性だった。
聾の方々が、日本語を書き言葉としながら、独立した言語である「手話」で伝えあうもの。微妙な意味合いや相互の意図、情報の本質を抽象的な側面でとらえて、感じることこそに、その独自性があると。牧原さんと長年の付き合いを感じさせる手話通訳の方によって、淀みなく語られた、聴者への提言でもあった。ぼくは、話したり聞いたり、考えや思いのかたちを音声によって伝えあうのに、何を感じているのか。こうやって書いてみても、ほんとうにむずかしい。

小さい子が、他のことに気を取られてしまって、食事に集中できないでいた。先生は、その子に食事をするように、手話で指導するのだけれど、その手をみていない。ああ、吐息まじりの言葉が先生の口からもれる「もう、みていないし」と。
目の前にいても、相手に声が届いていなければ、「もう、きいていないし」となる。
言葉は、表情とまなざしを交しあうことで届けられる。きっと、小さい子の意識には、未分化なものがある、とおもった。だれしもそういうものがあるだろうかとおもうと、愉快になった。
みることに集中していくのは、絵を描くのも同じだ。

食事もそこそこに、心のおもむくまま、一人掛けのソファに縦横無尽に戯れて、男の子が遊んでいる。ソファがひっくり返りはしないかと心配しながらも、そのまなざしをおっていた。