ことばをつくす。というように、この学園のみんなは、日々、みるをつくしている。
彼らとの視線を共有したくて、絵巻物アニメーションのワークショップを行ったが、彼らがみたものとはなんだろうか。彼らが日常で交しあっている、まなざしをみて、ぼくもそれをみた、みたよということを、彼らに伝えることはできるだろうか。そして、金町の、学園で暮らしている彼らのリアリティを、だれかに届けられるとしたら。
昔、勉強しながら、よくラジオをきいていた。リクエスト葉書を書きおくって、読まれたことがあった、一度だけ。うれしかった!けれど、自分のことじゃないみたいで、なんの曲か、どんなことを書いたか、忘却の彼方に。景品として、時計がついているペンダントみたいなボールペンが送られてきたけれど、なんだか信じられなかった。不思議だよね。
そういう希望は、持つものではなくて、届けられるものであるとおもう。
ということで、映像によるラジオみたいなものをやってみようと、大きな紙を囲んで、思い思いに絵を描いてもらう様子を撮影した。カメラに映っている小さな手がキャプチャー画面でビデオフィードバックされて、奥へと吸い込まれるように連なっているのを、不思議そうにみていた。次回、いままでに描いてくれた絵をアニメーションにしたものとあわせて編集した映像を、みてもらおうとおもう。
余談だけど、金町の手前は、柴又。映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんの物語の舞台。
ぼくは、小さい頃、寅さんの映画をみるのがつらかった。それは寅さんの甥っ子の満男の視線に重ねあわせてみていたからだとおもう。大人になりきれないものを保持していること、そのことへの社会の非常さに、やがて自分も味わうかもしれない失望を、共感していたのかもしれない。その切なさは、大人になってからわかったような気がする。
旅先の寅さんと、柴又の寅さんのメンタリティーは違うんだよね。描かれるアウトサイダーの、実際的側面は、幻想と背中合わせの現実に生きて、揺れ動いている。
ぼくは、絵かきであることの独善に、気づいてしまった。絵を描いて、それを仕事にするということは、孤独な表現を通じて、誰かのためになりたいと願う。矛盾した思いが裏腹な厄介な仕事だと自覚している。この内省をさけて通ることはできない。そういう、漠然とした不安が荒野のようにひろがっていて、人との関係性がうまく築けなくて悩んでいた。でも、自問自答するばかりではなく、考え方が美しい人たちとの出会いや、彼らの言動から、多くのことを学んできた。
いつか、君はなにがしたいの?と問われ、「発言権が得たい」と、口をついてでた。あははと笑われたけれど、自分でも可笑しくて。驚いていた。有言実行、自分の活動をひらいていきたい。いきたいってことは、それがまだできていないということだよね。
表現するって、なんだろう。すききらいではなく、もっと、やむにやまれぬ思いが、そこにはあるはずだ。おっかなびっくりでも、いままでのように、これからも、発言していこうとおもう。
だれかがおもったことを、だれかもおもっていてくれるかもしれない。