活動日誌

<2019年上半期を振り返って>

2019.9.18

伊勢克也アーティスト

交流先│

  • 認定特定非営利活動法人ももの会

問わず語り
「私は山口の看護学校の生徒だったの。原爆が投下されて数日後に広島へ向かったわ。被災地に着くと目を背けたくなるようなとても酷い状況でね、、。
その後、戦後、看護学校を卒業して東京へ出たの、看護婦の仕事をしてね、その後結婚。子供に恵まれてね、、でも、30歳の時に主人が死んじゃったの、その後は商売の布団屋を1人で。自動車の免許を取って、必死に働いたわ。良いお得意さんにも助けられ、なんとか子供達も育て上げて引退。10年前にここに通い始めたの。
最初はねちょっと鬱みたいな状態で元気がなかったんだけど、大井さん(桃三ふれあいの家代表)に励まされて、絵手紙を描いたり俳句を作ったりし始めたの。80歳で始めたのだけど楽しくってしょうがないの。夢中になっちゃって、絵手紙はもっと上手くなりたいし、俳句を作るために毎日のふとした事が心に留まるようになったの。あらら、また話し過ぎちゃったわ、いやだ、ホント聞き上手なんだから」。

ロードムービーを観るような
土曜日の塩沢幸子先生の俳句教室。人数は少ないのだけれど楽しい時間。毎回参加するレギュラーはテイコさんとカヨちゃん。テイコさん今年90歳なのだけど、とても勉強熱心で瑞々しい感覚をお持ちの素敵な方。カヨちゃんはここではまだまだ若い。団塊の世代に入るのかな、悪戯っぽい笑顔が可愛い。
夏のある土曜日、いつものようにみんなの作った俳句を並べて鑑賞会。

梅雨長く 海の遊びや 短かなり
北の海に さらされし石 ペンダント
波静か 水着の色で 海染まる
蟻祭り 青虫かつぎ 列のゆく
空からの 沖縄の海 エメラルド
海見たく テレビニュースに 西日差す
スケッチ旅 今なつかしく 房総の海
他24句

沖縄から房総、北海道まで? 日本中のいろいろな場所の景色や情景が描かれ、物語の舞台となっている。この一連の俳句の作者がカヨちゃん。全て実際に見たり体験したこと、とのこと。毎回カヨちゃんの旅を追体験するようで楽しい。
もうお一方のテイコさんの俳句も身近な出来事から、どこかへの旅の景色まで、並べてみると視点のフットワークは軽やかでいて広範囲。テイコさん曰く、
「ずっと子育てと仕事で大して旅行することもなくって、そんな俳句にできるような体験って多くないの、ほら、足も悪いし、だからテレビを良く観るのよね、そして、俳句にできそうなネタを見つけるのよ」。
お二人の俳句を並べ直して眺めると、一編のロードムービーを観るような味わいが。。

8月15日 日比谷図書文化館
<第29回8・15を語る歌人のつどい>桃三ふれあいの家を利用されていて、いつも楽しくお付き合いさせていただいている市川八重子さんの講演を聞きに行く。
「満洲における少女時代の戦争体験」と題されたお話し。
市川八重子さんは1943年、5歳の時に満洲に渡られた。1945年のロシア軍満洲侵攻から1946年8月に帰国するまでの体験を短歌にし昨年上梓した歌集『久遠』に一部「満洲」として纏められた。
講演では歌集の中から予め選ばれた50首の歌と時代資料が配布された。その歌の中からいくつかの作品をピックアップして市川さんが朗読される。長野県の高遠での生活のこと、何をきっかけに今まで沈黙を守ってきた戦争体験を歌おうと考えたのか、そしてロシア軍満洲侵攻から帰国までの正に死線をくぐり抜けてきた体験。それらを、順を追って、ゆっくりとした落ち着いた口調で、整然と整理された言葉で語られていった。

 夫とわれの灯ともす夏の短夜を時折り声かくたがひの部屋に
 いかにして生還したるか 誰もみな問ひたださむとす語らぬわれに
 遠ざけて来たる戦争体験を震災の日より書かむと思ひき

1995年の阪神・淡路大震災がそれまでの沈黙を解くきっかけとなった出来事だったという。そして今、市川さんが生活の基盤としている高遠のある伊那谷から満洲開拓に出られた方々がいるということも。そして昨今の不穏な社会情勢。

 七十年守り来たれり 中国人に嫁したる友をわれは語らず
 木に登り槐の豆を我にくれし友も匪賊に撃たれて死せり

友人のお姉さんが、36人の友を列車に乗せるために中国人の嫁となった。
同様に子供達を守るために中国人に嫁ぐ、生徒達に饅頭などの食べ物を得るために嫁ぐ先生といった話が多い。

 ことごとく鉄橋壊せし関東軍が逃げ延びゆけりわれらを贄に
 ロシア兵の銃剣われに光るとき土に額づき命乞ふ祖母
 血を流しまろびつつゆく女たち ロシア兵が繋ぎ曳きゆく
 手榴弾の意味を知りたる少女われ祖母が握れる塊みつむ
 新京に二十万人集まれり。をんなとをさな子、老人老女
 爆雷を身にまきつけて学徒兵敵の戦車に飛び込みゆけり
 二千体焼きし満洲の湿原に姫百合の朱わが目を射ぬく

1945年8月9日にロシア軍が満洲侵攻する。「ポツダム宣言」受託。関東軍撤退後は学徒出陣そして学徒兵の特攻。ロシア兵の蛮行や収容所での劣悪な環境。満蒙開拓義勇軍、長野県からの多くの方が。

 貨車に運ばれ雨にたたかれ引き揚げ船の港に着きき八歳の夏
 雨受くる無害貨車より捨てらるるみどり児ありき 日本に還らむ
 降りしきる雨の貨車より赤子抱き飛び降りたりき乳出ぬ母が
 中国人の子となる道を選びけり死を逃れむと十四歳の純は

そして引き上げ、貨車に積まれゆく。とても大きな大きな雨粒が、ビー玉くらいの雨粒が屋根もない貨車に落ちてくる。貨車の中は赤土混じりの海のようであった。
その状況で全てに耐えかね子供と共に飛び降りる母親がいる、その度に皆が声をあげた。

 敗戦より一年のち帰還せるわが前に立つ 父茫然と
 合歓咲きてわれらを迎ふるふるさとにやうやく着きたり夏終はるころ

終戦から1年やっと祖国へ帰る。お父さんは娘と再会し茫然と立ち尽くす。目の前には坊主頭の愛娘が。

全体で1時間くらいの講演だっただろうか。感情が高ぶるような様子は全く無く淡々と進む。合間に挟み込まれる短歌の朗読の時には目の前に絵が見える。31音で浮かび上がる映像に簡単な説明が添えらていく。
最後の歌にある「合歓の花」は施設での句会で、市川さんの作った俳句に見た記憶がある。市川さんの「合歓の花」はこの時の「合歓の花」なんだ。