活動日誌

TURNフェス5

2019.8.20

伊勢克也アーティスト

>桃三ふれあいの家メンバーと
TURNフェス5では、桃三ふれあいの家でこの10年間、施設利用者によって描きためられた1000枚の「絵手紙」を披露した。それに合わせて絵手紙のワークショップも開催、多くの参加者が絵手紙の面白さを再発見してくれたかな。
今回のフェスでは、施設を利用している方が数人会場までいらして、いつもとは違う時間を一緒に楽しむことができた。16日と20日の2回、それぞれ6人程の利用者とスタッフが、西荻窪から会場である上野の東京都美術館までいらしてくれた。お昼頃に着いて、まずは美術館のレストランでランチを楽しみ、13:00からフェスの会場をゆっくりと観て回った。足腰の弱い方もいるので、念のために車椅子も使ってのツアー。各ブースで展示の説明を受けたり、ワークショップに参加したり、短い時間だったけど思い思いに楽しんでいた。
それにしても皆さん若々しい。いつもより少しオシャレをして、違う場を楽しんでいる。好奇心も旺盛で気になるものがあると会場のスタッフをつかまえて質問をする。
1日目の参加者で、アーティストの岩田とも子さんの「意識の散歩」というワークショップに夢中になった方が何人かいた。白い紙をクシャクシャにして開いてできたシワを山や谷に見立て、その中を鉛筆で辿ってそれぞれ自由に自分のイメージの中を旅するという遊び。一枚の紙を共有して、神社にお参りをしたり、温泉に入ったり、きゃーきゃー言いながら随分と長い旅を楽しんだお二人も。
飯塚貴士さんが開催していた、参加者が描いた絵を使って映像制作をするワークショップに参加された方は、後から完成する映像を楽しみにしていた。
クラフト工房La Manoのブースでは糸紡ぎの作業をしばらく眺めて「ああ、私も昔随分とやったわ、でも、昔の糸車と違うわねー」。するとアーティストの五十嵐靖晃君が古い糸車を持って来て見せてくれて、「あー、これこれー」。
赤荻徹さん、洋子さんご夫妻が主催し、主にダウン症の子供たちが参加している絵の教室「アトリエ・エー」のブースでは、ちょっと涙ぐむ方も。聞くとお孫さんにダウン症の子がいるそうで、楽しそうに作品を作ったり、一生懸命作業したりしている方を目にすると胸がいっぱいになってしまうとのこと。
「気まぐれ八百屋だんだん」での空の絵と屋根。一メートルくらいの高さの、舞台セットのような屋根には登ることができる。ツアーに参加してくれた利用者のカヨちゃんと二人で屋根の上に座って「昭和のホームドラマみたいだね」と。登って腰を下ろしてみると、いろいろと話してみたくなる不思議な屋根だった。
会場を順番に観て回り、最後が絵手紙のコーナー。1000枚並ぶとなかなかの見栄え。皆さん自分の作品を探す。1人で150枚以上の作品を展示されている方がもいる。美術館で展示されるなんて思ってもみなかったよね、皆さん。
今回のツアーでは、施設で会うのとはまた違った利用者の方々の姿や表情が見れた。いつもにも増して楽しそうな顔。好奇心旺盛で何にでも興味津々。高齢者だなんてことを忘れてしまう。どんなに歳をとったって毎日のアップデートを怠らない。いつまでも好奇心の先端は瑞々しくあるのだねえ。

>牧原依里さんのろう中高生のための映画制作ワークショップ

今回僕が一番注目したワークショップ。空いている時間にちょくちょく覗きに行った。いくつかのテーマで映像表現を考えるワークショップ。例えば「花の美しさを視覚のみでどう表現するか」等。3つのグループに分かれてディスカッションが行れている。この空間の面白さに引き込まれてしまった。以下箇条書きで。

他のブースにはない空気。
コントロールされた音のない世界。
コントロールされない音の面白さ。
視覚によるコミュニケーションのための体の動き。
手話の振る舞い。
手の位置。
顔の表情。
正面、前面、人間の形が違うような。
・・・・

>ヘラルボニーの未来言語
この感想4連発は良いリソースになりそう。

>「きょうだい児」
兄弟姉妹に障害を持つ人がいる人を「きょうだい児」というらしい。今回初めて知った言葉。今回フェスに参加されている「ヘラルボニー」のお二人は、自閉症のお兄さんを持っている「きょうだい児」で、今の活動にこの事は大きく影響しているとのこと。実は僕も姉がろう者なので「きょうだい児」ということになる。障害を持つ人と同じ数かそれ以上の「きょうだい児」がいると考えていいのかな。
最終日に『きょうだい児ー親でも友達でもない人たちがみる障害と社会と自分』というとても気になるテーマのトークが行われた。残念ながら時間が合わず、ほとんど内容はにふれることができなかった。
僕のことを少し。家族という関係と、その外側にある社会と自分、ちょっと違う姉がおかれる社会との関係。成長するにしたがい、家族・自分・姉・社会の関係の中に何かうまく整理できない異物みたいなものを感じ始める。それは姉が持つ特性からくることは早くに認識していた。親は、当然であるが障害を持つ子供を自分の全てをかけて幸せにしようとする。我が子の全てを受け入れる。そんな親という立場とも違うのが「きょうだい児」。
ちょっとややこしくて理解してもらえるか分からないのだけれど僕はこう考える。子供の全てが親の人生の一部分である。親は子供の人生の一部分でしかない。兄弟姉妹も同様。子供は自分と親・兄弟姉妹との関係を作り編集し直し続けていく。
兄弟の関係は、年がそれほど離れていない場合、同じような存在が気がついたら身近にいたということからスタートする。そして兄弟姉妹という中途半端(?)な関係でずーっと続く。どんなに離れようったって、所詮お互いの刷り込みあいながら育ってきたのだから、雌型と雄型のようなもの。どちらがどちらかは複雑な構造なので簡単ではない。僕自身、姉の存在によって僕の生きることの一部分が形作られていることは間違いない。何やら体の一部がつながっているような気さえすることがある、不思議だ。
でも、障害の種類や程度によって関係は変わってくるので一概には言えないのかな。「きょうだい児」ねー。

>白鳥建二さん@絵手紙 
全盲の美術鑑賞者である白鳥建二さんによる、1000枚の絵手紙を題材に全盲の方に言葉で絵を説明するという、ツアーに参加した。
鑑賞することを考えるには、とても良い体験となった。内容というよりも、絵の表面で起きている現象を伝えることがまず最初にやらなければならないこと。「スイカ」と思って説明していくと「あれ、カボチャに見えてきた?」ある言葉を使って「スイカ」を説明していくと「カボチャ」になる。確かに「スイカ」と「カボチャ」は近いんだ。むむ?「花」というモノの視覚体験がない方に言葉で説明する場合は「花」という名札を外して「花」が描かれた絵の様子を説明していくことになる。これは美術作品鑑賞には重要なことだなあ。うーん。