[エッセイ] 私の手話と、同級生の指文字と、よよの筆談
TURNフェス5では映画制作ワークショップを企画した、牧原依里さんによるエッセイ。牧原さんは映画作家として、また東京国際ろう映画祭のディレクターとして、豊かなろう文化の世界を伝えています。その活動は、学生時代の原体験につながるのかもしれません。友人たちとの大切な思い出を綴りました。
<「TURN JOURNAL SUMMER 2019-ISSUE02(2019年8月発行)」より>
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ここはたまたま、空気がある世界で、音が生まれて、耳を使う人間がたくさん生まれてくる世界だった。そしてたまたま、私はろう者だった。
思えば、今ではすっかり馴染んだ「聴者」も小さい頃の私にとっては「未知の世界に住む人間」だった。小さい時から手話でろう者の親と話し、ろう学校で会う生徒も全員ろう者だった。私が知る聴者はろう学校の先生と、生徒の親、親戚、そして道や電車などですれ違う人だった。幼い私の日常の中にいた「聴者」は私の理解を超えた存在で、口をパクパク動かす人間だった。
海外に留学した経験がある人は、その国で自分が日本人であることを強烈に感じるという。それと同じように、私が小学3年生の時に、ろう学校から地元の学校に転校した時に味わったあのカルチャーショックは今でも忘れない。人が大勢いて、机が沢山あって、名前を呼ばれると声で「ハイ」と返事する。それは私にとって何もかもが新鮮な、聴文化の体験だった。
当時はなぜ声だけで会話できるのか不思議だったし、その理由がわかっている今もなお、時たま不思議に思うことがある。ただあまりにも毎日聴者に囲まれていたので、聴者の思考や文化というものを少しずつ理解していき、聴者(の日本人)のいわゆる笑いのツボも少しはわかるようになってきた。それでもやはり私はろう者である以上、聴者のことは全て理解できなくて、今も聴者での文化や様式に驚かされることがある。
小さい頃は聴者が全てこの世の中を決めているのだと思い込んでいた。ろう学校の時はろう学校の先生(聴者)が言うことが全て正しいと思っていたし、地元の学校に通っている時は先生が言っている内容がわからなくてもそのままやり過ごしていた。
けれどもそんな私を変えてくれたのは中学校で出会った、ある女の子だった。その女の子が指文字表を私のところに持ってきてくれたのだ。実をいうと私はそれまで指文字という存在も知らなかったので、その女の子と一緒に指文字を覚えていった。すると、他の生徒も覚え始め、私が所属していたクラスだけに限らず、同学年にも広まっていった。思春期の子にとって指文字は面白かったようで、授業中にお互いの暗号として使っていたようだった。見知らぬ男子や女子が指文字で私に話しかけてきた時はとてつもなく驚き、動揺した記憶が今でも残っている。「あ、私はこれ以上我慢する必要がないんだ」と、私は声を自然と捨てたのだった。自分にもわからない声で無理やり聴者とやりとりする価値がこれ以上見出せなかったのだ。
実は、この女の子以外に、小学5年からずっと筆談でやりとりしてきた仲が良い女の子「よよ」がいた。彼女とは毎日ずっと筆談でやりとりしていて、彼女とともに同じ中学校に入学した。あまりにも仲が良すぎて、ある日彼女が休んだ時は先生から「よよがいなくて寂しいね」と言われたぐらいだった(彼女は皆勤賞をもらえるほどの出席率で毎日通っていて、休むのは珍しかったのだ。後から聞いたら小豆の食べ過ぎで食あたりになったらしい)。彼女とは筆談しすぎて、もはや手のひらでの空書きで通じるぐらいのレベルに達していた。彼女と一緒に同じ高校に入学するつもりだったが、彼女が受験に落ちてしまい、お互い違う高校に進学することになってしまった。理由はわからないけれども高校生あるあるなのか、あれからプライベートで会わなくなってしまった。
大学生になった頃、なぜか辺鄙なところで偶然久しぶりに出会った。お互いテンションが上がり、別日によよの家にお邪魔した。久しぶりにA4用紙を広げて、最近の近況やたわいないことを筆談しあった。帰り際にそのA4用紙をゴミ箱に捨てようかと言ったら、よよは「捨てないで。保管する」と言い出した。なぜかくすぐったくて、私の心がキュッとした。「なんで保管するの?」と笑う私に対し「思い出になるじゃん」と返す彼女。そういや彼女が手話や指文字を覚えて使おうとしていた時、私は「よよらしくないからやめて!」と笑っていた。私にとって筆談より指文字や手話の方がずっと話しやすいはずなのに、なぜか「よよらしくない」と思ったのだった。小学5年から中学3年、5年間ずっとよよと筆談しあってきた。その文字数は一体どのくらいにのぼるのだろう。そのノートや用紙を全て捨ててしまったのをちょっぴり後悔している。
私の青春は、彼女たちと、下らない、どうでも良い、若い子にありがちな話で盛り上がる、些細な日々で満ちていた。正直、学校には勉強のためではなく彼女たちとお喋りするために行っていたし、授業中は寝ていたりしていた。音声言語が普段から入らない私にとって、彼女たちは私が社会につながる媒介的な存在だった。彼女たちから授業の内容を伝えてもらっていたら、ほんの少し良い大学に行けていたかもしれないが、私たちは授業の中身を共有しあうことは意味がないと思っていた(先生、ごめんなさい)。彼女たちの恋愛だったり、家族の話だったり、好きな漫画やお笑い芸人の話だったり(そういやラーメンズの動画を日本語字幕付きで見せてもらったが、なぜお客さんは彼らが出てきたら笑うのか、その笑いが理解できないと伝えたら「お前には一生この笑いを理解できない」と言われた)、そんな話の積み重ねで私たちの友情はできていた。
要するに何を言いたいかというと、私は聴者によって決められた基準の中で育ちながら、同じ聴者の彼女たちに私の「当たり前」を壊されたということだった。
人それぞれ「相手」によって「自分」らしさを出せるツールがあって、たまたま私と親は手話だった。私とその中学の女の子は指文字だった。私とよよは筆談だった。そしてその中身はきらめく一瞬の日々だった。
TURNに踏み入れてまだ日が浅いけれど、TURNが目指しているのは多分こういう空間なんじゃないかなぁ、と自分の過去をふと思い出したのだった。
牧原依里(まきはら・えり)
ろう者の“音楽”をテーマにしたアート・ドキュメンタリー映画『LISTENリッスン』(2016)を雫境(DAKEI)と共同監督、第20回文化庁メディア芸術祭アート部門審査員推薦作品、第71回毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞ノミネート等。2017年には東京国際ろう映画祭を立ち上げ、ろう・難聴当事者の人材育成と、ろう者と聴者が集う場のコミュニティづくりに努めている。
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