[連載:もうひとつのTURNを考える〈前編〉] わたしたちが傷ついても良い居場所のありか

長津結一郎[研究者/九州大学大学院芸術工学研究院助教]

<「TURN JOURNAL SUMMER 2019-ISSUE02(2019年8月発行)」より>
障害者や芸術文化について研究する長津結一郎さんは、TURNのプロジェクトが始まったころからその展開を見てきました。TURNから「社会包摂とアート」を考えていく連載です。

 包摂的な環境を目指す場には、つねに排除がつきまとう、と断言するところから考えを始めなくてはならない。包摂という言葉は、英語でいうところのinclusionという言葉を翻訳しており、おおまかにいうと、多様な人々が多様なままで居られるような状況のことを指している。ただ考えてみれば、障害の有無、性別・性自認や性的指向、国籍やその有無、年齢などのさまざまな条件をすべて包摂できるような場など、本当は、どこにもない。
 芸術の現場においても同様である。誰か(たとえばある現場ではアーティストかもしれないし、ある現場ではキュレーターかもしれないし、他の誰かかもしれない)が包摂的な環境を芸術の場でつくろうとした時にも、つねに、当然、そこには何らかの排除がある。誰かが作品を選ぶとき、誰かの作品は選ばれない。限られた言語しか対応していない作品発表の場では、鑑賞できない人がいたりする。誰かの常識が誰かの非常識となってあらわれるなか、アートはそれでも包摂的な環境を目指して、暫定的な解を提示し、絶対的な歓待の夢を見させる。
 もちろんこれは、芸術の現場に対する俯瞰的な印象である。実際には、例えばTURNのプログラムで見られるような、あるアーティストが福祉施設にて、障害のある人やその周りにいる家族や施設職員などと関係性を丁寧に築いていく様子からは、排除からはほど遠い、平等で豊かな関係性を感じとることができる。このことが積み重なることで、個人と個人のつながりの豊かさが、社会全体へと膨らんでいくことを思わずにはいられない。だがそれは、ある一定のラインで、どうしても超えられない壁に突き当たる。

 社会包摂(socialinclusion)という言葉は厄介である。一方でそれは異なる人々が異なったままにいられる社会を構想する言葉のように見え、他方では健常者の社会に非健常者を包み込み覆い隠す言葉のようにも見える。
 もちろん、包摂的な社会のビジョンは、社会的に弱い立場にいる人が社会から排除されたり孤立したりするのではなく、ともに支え合うことにある。では、そもそも排除“する”側だった人々が、排除“される”側の人々と「ともに支え合う」にはどうしたらいいのか。
 それは大まかに言えば2つある。1つは、マイノリティの立場におかれている人たちが元気になったり、何かいままでとは異なることをし始めようとしたりすること、言い換えると「エンパワメント」されることが重要である。と同時にもう1つは、マジョリティの立場におかれる人たちの「意識が変化」することも、あわせて重要であると考えられる。*1
 ここで気をつけたいのは、マイノリティの“立場におかれている”人、と強調した点である。人はマイノリティとして/マジョリティとして生きているのではない。つねに、ある社会的背景によってマイノリティ/マジョリティという境界が入れ替わりながら生きている。ならば、エンパワメントが必要なのは「マイノリティ」と名指される人ばかりではない。マイノリティの“立場におかれている”人-----すなわちなんらかの状況変化によってはすべての人にひらかれる。と同時に、「意識が変化」することもまた、すべての人にひらかれるだろう。

 ともに支え合う場とは、関わる人々すべてに、何らかのエンパワメントの機会が保証されている場であると同時に、関わる人々すべてが、何らかの意識の変化を求められる場でもある。しかし、場においてはつねに、誰かの「判断」が下される。芸術の現場においても、つねに何らかのディレクションやキュレーションという名の価値判断や削ぎ落としが不可欠である。
 そして価値判断をするにあたって、人は、行われていることに対して意味を見いださざるを得ない。ときには、人がより良く生きるためのきっかけを見出す。

ーーー本来の「福祉」という言葉の大きな意味は、サービスではなく「人がより良く生きていく」ための言葉だと思うので、広義の概念を再認識し、回復させていくような新しいモデルを、TURNを通してつくっていければいいなと思います。*2

 そして、ときには、人がはじめから持っている力を構想したりする。

ーーーTURNというのは、異なる立場の人たちが時間や経験を共有するわけです。そして真ん中にある伝統文化や芸術、ワークショップ、作品や展示が経験や記憶となって残っていく。最後にそれぞれの立場の人の中に、その経験が返っていき、それがそれぞれの中で発酵して「人がはじめからもっている力」に気づいたり、目覚めていったり、というのがTURNのモデルというか、TURNの社会的な位置づけというか、*3

 だが、そこで見出す意味は、善としてのみ捉えられるものではいけない。何か新しいことが起きていく際には、良い意味が生まれるだけでなく、当然、悪い意味も起こり得る。その際に重要なのは、悪い意味、悪い変化を不可視化することではない。

ーーー(主催側は)何かしらの「よい部分」の評価軸は必要なんだろうけれど、何をもってよしとするのか。「変化」自体をよしとして、それがいい方向に向かっているのか、悪い方向に向かっているのか、極論を言えば、そもそも判断はできないんじゃないか。「変化」というものに対する価値…それがTURNの本質なんだろうなぁ。*4

 そこで起こることの意味や変化を、良い/悪いという軸で規定しすぎることなく、時には判断を保留し、そこにともに付き合っていくことや、その変化を幅としてとらえていくことであろう。

 TURNという言葉の意味は、ここでも、問わない。TURNというプロジェクトは、「TURNとは何か」という問いを温め続けている。プロジェクトを実施するうえでTURNという言葉を暫定的な概念、もしくは見立てとして置くことは、近年のアートプロジェクト論でいうところの「OS(オペレーション・システム)」という機能にも近い。
 その一方、何がTURNという概念の内側にあり、何が外側にあるのかという判断が、TURNを弁じる人々がジャッジメントしている、もしくはせざるを得ない状況にある。とすると、TURNという言葉が提起しようとすること、すなわちすべての価値を転換させる可能性の幅と、現実のプロジェクトがひらく可能性の幅には、ギャップが生まれる。
 一人称としての異なる「わたし」の集合体としての「わたしたち」のための居場所。そのような場を構想するには、もちろん、「わたし」の目の前に複数の選択肢があることと、それらを柔軟に選択できる幅が求められる。では、そのような場-----換言すると、もうひとつのTURNは、どこにあるのか。

 芸術を通じた包摂の場は、マジョリティによるマイノリティの消費の場でもなく、マイノリティの過剰な自己実現の場でもない。ひとりひとりをエンパワメントしつつ、ひとりひとりの中に意識の変化が生まれる場である。それはもう少し違う言葉で言えば、自己を振り返り、省察する場でもある。
 暴力的な言い回しであることを重々承知で言うと、わたしたちはみな、マイノリティであり、マジョリティでもある。そしてそこにはある種の、傷つきがある。自己否定の沼が、そこにある。わたしの人生に意味などあっただろうか、と苛まれる瞬間がある。
 そしてその沼はいつしか、他者の否定につながるかもしれない。彼らの人生に意味があっただろうか、と刃を向ける人がいる。彼らの人生に生産性などなく、彼らは不良品だったのではないか、と語気を強める人がいる。
 2016年に相模原の障害者施設殺傷事件を受けて批評家・杉田俊介は書いた。

ーーー人間の生には平等に意味が無いのであって、意味と無意味の線引きを拒絶し続けることで、僕らは内なる優生思想/ヘイト的なもの/ジェノサイドの芽を断ち切っていくべきである、なぜなら、優生的・ヘイト的な差別は、社会的弱者や他者を抹殺していくのみならず、僕ら自身をも緩慢に滅ぼしていくから
*5

 わたしたちが、芸術を通じた包摂的な場のデザインを目指すのだとしたら、それはまず、現場のただなかにいるわたしが、自分に、他者に、つねに傷つくことを前提としながら、それでもそこにある豊かさと信じるものを、言葉にすることを続けていくよりほかない。
 意味があるかないか、それがどのように批評できるかできないか、という地平ではない。ただ、目の前にいる人と、面と向かってやりとりすること。そこにある豊かさを見つけ出すこと。それを丁寧に言葉にしようとすること。その言葉を、他者に伝えようとすること。自分とは異なる言葉の持ち主を見つけること。
 それも、より小さな声を聞き逃さないように。
 そうすることではじめて、わたしたちは、わたしたちの居場所をつくっていくのだと思う。


*1 社会包摂の捉え方については下記参照のこと。九州大学×文化庁共同研究チーム(編)『はじめての文化芸術×社会包摂ハンドブック』九州大学大学院芸術工学研究院附属ソーシャルアートラボ、2019年。
*2 奥山理子の発言。森司(監)『TURNNOTE:「TURN」を考えたときの言葉2016』アーツカウンシル東京、2017年。
*3 吉本光宏の発言。右に同じ。 
*4 五十嵐靖晃の発言。森司(監)『TURNNOTE:「TURN」とつながったときの言葉2018』アーツカウンシル東京、2019年。
*5 立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件:優生思想とヘイトクライム』青土社、2017年、176頁

 

長津結一郎(ながつ・ゆういちろう)
アーツ・マネジメント、文化政策学、芸術社会学などをベースとし、障害のある人などの多様な背景を持つ人々の表現活動に着目した研究を行う。また近年は、芸術活動の担い手育成や市民創作ワークショップをフィールドとして、芸術文化の持つ役割についての考察を深めている。博士(学術・東京藝術大学)。著書に『舞台の上の障害者:境界から生まれる表現』(九州大学出版会、2018年)。