活動日誌

「第14回TURNミーティング レポート」(後編)

2021.10.5

※前編はこちらから

■  「セントリズム」をいかに超えるか

第二部では、「伝えること、想像すること」と題したトークが行われました。ゲストには第一部にも登場した綾屋紗月さんのほかに、評論家、ラジオパーソナリティであり、近年は社会調査を通じて社会課題への提案を行う「一般社団法人社会調査支援機構チキラボ」の活動も展開している荻上チキさんが加わりました。TURNからは監修者の日比野克彦とTURNプロジェクトディレクターの森司、また、第一部に引き続きアーツカウンシル東京の畑まりあも参加しました。

第2部のゲスト、荻上チキさん

冒頭に綾屋さんから、あらためて自身の世界の捉え方やコミュニケーションのあり方についての話がありました。幼い頃から集団生活に馴染めず、世界をガラス越しに見ているような感覚があったという綾屋さん。中学時代にはアルファベットの文字がチラチラと動いて見え、情報が理解できなかったと言います。先述のように大学時代に手話を始め、手話を主な言語にしようとも考えますが、ろう者のような手話はできない。自分は何者なんだと悩むなかで、30歳を超えた頃に出会ったのが「当事者研究」という領域でした。

「細かい情報を過度に受け取ってしまう」「いつもお風呂場のような反響音がある」などの特性から、綾屋さんにとっては、多くの人が行う「さまざまな音の中から相手の声など聞きたい音だけを拾う」行為は難しいと言います。発達障害と呼ばれるなかでも、こうした「情報の受け取り方」は人それぞれで、「外界の情報から連想して自分の世界に飛びやすい」「単語レベルの音声は記憶できるが、文章レベルの音声は記憶しづらい」といった人もいます。

綾屋さんは、大切なのは「“私”にとってちょうどいいコミュニケーションのデザイン」だと話します。たとえば綾屋さんの場合、「無理して話さず文章で表現する」「反響しない空間を選ぶ」「面談時間を短くする」「途中で仮眠をとる」などがそれに当たります。ほかにも、フォントの変更でアルファベットが読みやすくなったり、内容が一致した音声と手話を同時に受け取ることで意味が取りやすくなったり。綾屋さんは、「私が『治す』『努力する』のではなく、環境を調整することでコミュニケーションはできる」と話します。

メモを取りながら、考えをまとめる綾屋さん

一方で荻上さんも、自身の歩みや立場から議論に新しい視点を投げかけました。大学で文学やメディア論を学んだ荻上さん。そのとき、文学の先生に繰り返し言われたのが、「セントリズム」を疑う視点、つまり、作品が何を中心に取り上げ、何を周縁化しているかということに対する態度だったと話します。「たとえば、文学の世界では、かつて見えにくかった労働者という存在をプロレタリア文学が扱い、男性中心主義だったのがフェミニズム運動以降は女性にも焦点が当てられるようになる。こうしたかたちで、セントリズムを意識して、その限界を見極めて、その構造を脱構築していくことの重要性を教えられました」。

こうした周縁化されてきた存在に関する議論は、文学に限らず、近年、一般社会でもゆるやかに広がりつつあると荻上さんは言います。じつは、荻上さんの息子さんも自閉スペクトラムの当事者。「以前は、そうした存在の『問題』は個人の身体に宿るもので、本人がリハビリを通して『健常』になるべきとの発想が社会の中にありました。健常者セントリズムです。しかし障害学の考えが広まり、環境面の改善の重要性が指摘されるようになっています」。

「第一部のテーマだった配信やコンテンツ制作の現場でも、これまでは健常者セントリズムが前提にあったのではないでしょうか」と荻上さん。「障害を持つ人が参加すると配信が滞ると感じるならば、それは、これまで自明視されていたコミュニケーションが、誰かの排除の上に成立していたということです。それを変えるには、『誰に何を伝えてこられなかったのか』『誰に何を伝えてこられたのか』をともに点検したうえで、今後はどんなコミュニケーション空間をつくっていくか、議論を重ねることだと思います」と話しました。

これまでの議論を聞いた日比野は、「アーティストには多数派に傾きそうになると、それを避ける習性があると思う。第二部のテーマに引きつければ、漠然と大人数に伝えようとしても顔が想像できず、特定の誰かに伝えようとした場合の方が表現できることが自分の経験的にもある。誰もがある種、自分に対して当事者研究をしていて、そのなかで個別的な『穴』を埋めたいと思うとき、伝える、想像することが始まるのではないか」と述べました。

TURN監修者の日比野克彦(左)とTURNプロジェクトディレクターの森司

また、森は荻上さんの話を受け、現在を「これまで前提にして疑わなかったことがすごい速度で変わり始めている時代」と言います。そして、「TURNはその変化のなかで出てきたプロジェクトであり、今回の配信のようなさまざまな工夫や努力もしている一方、配信や展覧会場のつくり方やあり方にはまだまだ課題が多い」とTURNの現状を整理しました。

配信のコメント欄には、「マイノリティに優しい社会はマジョリティを脅かすのではなく、より住みやすくなるとわかってほしい」といった切実な声も届いていました。

■ “みんな違って、みんな良い”はなぜいけないか

森は綾屋さんの自己紹介の発表を踏まえ、当事者が抱えるリアルな困難と、それを外側から見る他者の認識の間にはズレが生まれがちだと指摘します。そして、そうした困難を持つ人に対し、社会の側に具体的に求められる態度とは何か、と問います。

それに対して綾屋さんは、マイノリティが声を挙げた際の多数派の反応として、一見理解を示しながら、「ご自由にどうぞ。でも私たちとは関わらないで」と距離を取り、マイノリティが孤立するかたちで多様性を認める向きもあるとして、「それでは困る」と話します。「そうではなく、やはり当事者の内側で何が起きているか、どんな苦悩があるのかまで想像して知ってほしい。そのとき初めて、“距離のある変わった人”としてではなく、自分との近さに気づいたり、人としての共有性を見つけられたりする。そうあってほしいと思います」。

他方で荻上さんは、「“みんな違って、みんな良い”という荒い論理で、すべての個性や特徴がむしろ無効化されてしまうことも危険」と話します。つまり、多数派の側が、「私にも個性がある。みんなに個性があるのに、なぜあなたを特別扱いしないといけないの?」と問い返すような場合です。これに対して綾屋さんは、「LGBTにせよ障害にせよ、そこにはマイノリティの集団としての歴史がある。そうした集団のカテゴリーの多様性と、個人の多様性の両方を、バランスよく認めていくことが大切になると思う」と指摘します。

これに荻上さんも、「物事を変えず、“みんな違って、みんな良い”と言えること自体が、すでに特権的。たとえば道路のあり方が問題になったとき、現状の道路のままで『みんな移動の仕方は自由。車椅子の人も自由に移動して』と言っても、段差があるじゃんと。従来は健常者に特別歩きやすい道路をつくってきたわけで、そうした態度を持ってあたかもフェアであるとするのは、既存の差別を容認することになる」と応えます。

また荻上さんは、日比野の発言を振り返り、「漠然とマス(多数派)に届けると、マスの規範を頼りにすることになる。すると、ステレオタイプや偏見が入りやすく、こぼれ落ちるものが出てくる。多数派が“ありのままの感情”をただ出すと、じつは社会にインストールされた通俗的な想像力で話すことになってしまう。それを変えるには、何となくマスに向けるのではなく、目の前の人はどんなコミュニケーションをしてどんな背景がある人なのか、自分はどうか、などを考えないといけない」と指摘。さらに、「それぞれの表現や社会運動にも固有の歴史や事情があり、そこから必然性のあるコミュニケーションが選ばれている。でも世の中には、その固有の事情に触れずにきた人、学ぶ機会のなかった人もいる。そうした人への架け橋となる評論や表現、社会運動が求められていると思う」と話しました。

一方で畑は、日比野の「会話のとき、僕は話を断片的に聞いたり、自由に連想してまた戻ったり、自分の頭のなかで編集して会話している」という発言を受け、そうした断片的でまだらな理解も、「それが“コミュニケーション”そのものの1つの性質ではないか」と言います。「たとえば通訳者がぶつかる問題に、適切な通訳ができないと通訳者としての質が問われるとの不安があると思います。でも、それはアートや表現のような曖昧なものについてコミュニケーションをリレーするとき、自ずと生まれるズレでもある。コミュニケーションとはそんな風に、根本的にわからないものでもあるという理解も大切かもしれません」。

■ ズレ、衝突から始まるもの

第二部の終盤では、森の「習慣的に持っている言葉のリズムや話し方をどう変えられるのか」という問いを起点にして、コミュニケーションのズレが持つ可能性や、そうした状況に対峙するうえでの態度のあり方に関する発言が多くありました。

荻上さんは、直前の畑の話を受けて、コミュニケーションには意味伝達型だけでなく、非伝達型とでも呼べるタイプのものがあると語ります。たとえば、「えーっと」のような言葉の合間にある声は、語義的な意味はなくとも、相手の緊張や喋りづらさなどさまざまなことを聞き手に伝えます。ところが、話し手と聞き手の間に価値観の共有がなければ、そこにある「本当に伝えたいこと」を取りこぼしてしまう可能性もあります。

「僕たちはこれまで、典型的な価値観にだけチューニングしてきた。マジョリティが乗れないコミュニケーションの形式は学ばなくていいという慣習がありました。でも、それではいけない。そのとき大切なのは、個別の現場で個別の人物にチューニングするミニマルな意識で、僕はトラブルにこそ本質が宿ると思います」と荻上さん。「たとえば社会運動では、潜在的な対立を可視化することでマジョリティ側に負荷をかけ、社会システムの改善を促す。今日のようなイベントの配信も、収録だと事故は無くなりますが、潜在的なニーズは可視化されない。なので、具体的なトラブルや衝突に出会っていくことが大事だと思います」と話します。

他方で綾屋さんは、今回のイベントの現場を例にとり、「チキさんが、さっき私の発言を私以上に上手に話してくれたり、日比野さんや畑さんの言葉を理解しやすいように膨らませてくれたりした」と語り、「社会が自明視しているルールのなかでは伝えられないこと、わからないことが、通訳者的な存在がいることでわかり合うことができる。それを感じてワクワクしている」と、間をつなぐ存在の重要性をあらためて語りました。

日比野は、人は使う道具や環境から影響を受けると語り、時間通りにバスや電車が来ることが過度に求められるような社会では、「ズレ」そのものが許容されにくいと指摘します。そのうえで自身は、人と接するとき、完璧な同調ともズレとも異なる、「ゴムのように伸び縮みする可変的な定規を持っていたい」と言います。それを森は、「こうじゃないといけないというのではなく、しなやかな心を持つことの重要性と受け取った。衝突がないと見えないことがあるけど、そこには同時にそれをただの対立にしない余白も必要」と広げました。

最後に、今回の感想について。畑は「今日のイベントはスムーズさではなく、あえて混線に向き合うことを大事にして、わからないときは中断した。そのなかで見えてきたことがあった。確認し合えるというのは、フラットな関係だからできること。混乱したり、手数(てかず)をかけたときにこそ見えることがあって、それはアートにもつながる話なんじゃないか。それが次の社会にもつながると信じて、手間を省かずやっていきたいと思います」と話しました。

綾屋さんからは、「コミュニケーション障害は、人と人の間で起きているとあらためて感じた。そしてこの、人と人との間に生じる『すれ違い』という意味でのコミュニケーション障害が生じているとき、そのすれ違いを擦り合わせようとすることこそコミュニケーションだと感じました」との声が。また荻上さんは、「5人それぞれの話し方があった。見ている人も自分の話し方を意識したんじゃないか。他者とのコミュニケーションにおいて齟齬は必ず起きるもので、それはアイデアの源泉にもなるが、放っておくと不幸の源泉にもなる。それを理解するために、いろんな話法や背景を持つ人と対話を重ねることが重要」と話しました。

イベントの終わりに、森は次の視聴者からの感想を読み上げました。

「自閉症の我が子に9年間寄り添ってくれる友達とのスタートは、9年前我が子が突然その子の手を噛み付いてしまったことからはじまりました。小一だった子供たちですが、『なんで噛み付いたんだろう?』という疑問から、もっと知りたいと思ってくれたそうです。その子供たちを支えてくれた周囲の大人たちにも感謝しています」

この感想は、今回のミーティングで登壇者が語り合った内容を、力強く支えてくれるような示唆に富んでいると感じました。

終了後の会場で、綾屋さんに感想を聞きました。即興的な会話が難しく、他者の話を記憶するためにメモをとりつつ議論に臨んだ綾屋さん。「今回、そうした自分なりの方法を使いながら、自然にその場にいられたのが印象的だった」と語ります。そして、「今日は私やろう者の方、あるいは日比野さんのようなアーティストもそうかもしれませんが、周縁化された存在が多くいた。日常では人に話が通じないと感じるのに、そういう人たちが集まるとなぜか通じてしまうという面白さもあった。自分が『はずれ者』ではなく、場を構成するひとつになれたと感じ、静かに嬉しい感じがありました」と話してくれました。

次回のTURNミーティングは、2021年12月に開催予定。その模様は、ふたたびこのページでレポートしたいと思います。どうぞご期待ください!

執筆:杉原環樹
撮影:加藤甫

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