活動日誌

第3回TURNミーティング レポート

2017.11.30

TURN運営スタッフ

多彩なゲストと一緒に、「TURN」の可能性について考えるトークイベント「TURNミーティング」。その第3回を、2017年11月19日(日)、東京藝術大学で開催しました。

「TURNを検証するII ~TURNが描く社会~」 と題された今回は、3年目を迎えたTURNの可能性や課題について、アーティストのJames Jack(以下、ジェームズ)さん、日本の障害者福祉における表現を研究する長津結一郎さんをゲストに迎え、活発な議論が行われました。

TURNをめぐる言葉のあり方や、考えておくべきその社会的な位置づけについて、肯定的な面だけではない厳しい指摘も飛んだ、当日の模様をレポートします。

■それぞれの人がすでに持つ、ユニークな「色」

今回の「TURNミーティング」では、前半にゲストの二人によるそれぞれの視点からのプレゼンテーションを行い、後半はその発表を踏まえ、TURN監修者の日比野克彦やプロジェクトディレクターの森司も交えたディスカッションを行いました。

最初に登場したのは、アーティストのジェームズ・ジャックさん。アーティストとして2015年の初年度からTURNに関わり、現在は九州大学ソーシャルアートラボのアーティスト特別研究員として、福岡を拠点に活動しています。

ジェームズ・ジャックさん

具体的なプレゼンテーションに入る前に、ジェームズさんは「視覚化の実験」として、参加者にあるアクティビティを促しました。「目を閉じて、自分自身の、そして隣の人のエネルギーを感じてください。あなたの、隣の人の今日の色は、どんなものでしょうか?」。先入観ではなく、「その人の本来の色」を感じることがどれくらい難しいかを感じてほしかったというジェームズさんは、今日の発表を通じて、「人がすでに持っているユニークな色」について話したいと語ります。

そんなジェームズさんは今回、TURNスタッフから「アートの社会実装」という発表テーマが届いた際、一抹の不安を覚えたと言います。

「なぜなら、『実装』という言葉には、『いまはそこに無いものを、新しく導入すること』という意味があるからです。たとえば、ジェンダー差別がある場所に、ジェンダー平等の考え方を『実装』する、というように。けれど、TURNが目指す、個人がそれぞれに持つ価値=『色』の発見という点で言えば、社会はアートによってカラフルになるのではありません。人は、すでにカラフルだからです。そこで大事なのは、新しい価値の実装ではなく、すでに社会にある価値を『解放する』という視点だと思います。」

こうした考え方の背景として、ジェームズさんはいくつかの個人的な体験を語りました。ひとつは、メンタルヘルスの改革を目指す施設の所長だった母親の存在です。彼女の活動を手伝っていたジェームズさんは、利用者がお互いに自分の物語を語り合い、それを絵にするワークショップなどを見て、母が日常的な場所にあるクリエイティビティを人々と共有しようとしているのだ、と感じました。

また、母親のベトナム系アメリカ人の友人が、ジェームズさんのスタジオに滞在した時のエピソードも紹介されました。その人は写真家で、両親が戦争の影響で難民となり、自身もHIVの感染者という背景を持っていました。お互い、写真に関心を抱いていたその人との交流は、ジェームズさんにとって、アートは他者とともに生きるひとつの方法であること、他者に新しい視点を実装することは傲慢であること、そして、自分のライフスタイルはどうあるべきかを考え直す、重要なきっかけになったと言います。

他者によって開かれる、こうした認識の広がりの経験は、日本でもありました。はじめて日本で暮らし始めた1990年代、ジェームズさんは、日本社会が求める制約の強さにストレスを感じたそうです。そのとき解放感を与えてくれたのは、精神的な病を抱えた子供たちが週末に訪れるお寺にある保育所でした。「外国人」としてではなく、開放的に自分に接してくれる子供たちの存在は、ジェームズさんに大きな力を与えました。

ジェームズさんは、TURNもこうした「解放」の場になり得ると話します。そして、TURNの参加アーティストとして訪れた施設について話は広がりました。たとえば町田市にある福祉作業所「クラフト工房 La Mano」では、雑木林の中の建物で行われる染色作業を見学し、庭で栽培された材料と染料のつながりや、利用者が編むその糸の色の豊かさに感動したと言います。

「豊かな色で染められた糸を見て、社会を見ている感じがしました。そこには同じ色はひとつもなく、作業している方たちもお互いの色に敏感でした。その場所は物理的にも、形而上学的にも多様で、カラフルだったのです。ここには、社会に応用できるものがたくさんあります。たとえば、パーツの組み合わせはユニークだけど、色はすでに存在している素材から成っていること。これは、未来の社会のモデルとなり得ます。」

福祉施設とアーティストのこうした豊かな交流や、TURNフェスのような催しは、TURNが3年間に積み上げてきたものです。一方、ジェームズさんは、「植物学者によれば、木の根の大きさは枝の大きさで測ることはできない」と話し、目に見える成果でTURNの価値を語るのではなく、不可視の「根」の部分を何度も確認しよう、と呼びかけました。

そのうえで、TURNをより良い場所、長く続く場所にするために、四つのキーワードを提案しました。固定的な考え方の人を刺激する=「stimulate」、自分たちの土壌を豊かにする=「enrich」、すでにある材料から火を起こす=「ignite」、そして、長く続く根を持つ=「root」です。こうした言葉の選択は、単なるボキャブラリーではなく、「世界をどう見るかに関わるものです」とジェームズさんは話します。

「世界にはカラフルな可能性がたくさんあります。たとえば、『トマト』と聞くと多くの人は『赤』を浮かべるでしょう。しかし、実際はトマトの色は、黄色や緑、紫やオレンジなどの組み合わせです。私たちは、本当に自分の目や耳、心で世界を感じているのでしょうか? 私は、お寺で出会った子供たちに学んだように、自分の目や耳や心で世界を捉えていきたい。私たちには、誰にでも世界を変える想像力があるのです。」

■包摂と排除。「共犯性」の可能性をめぐって

続いて登壇したのは、九州大学大学院芸術工学研究院助教の長津結一郎さんです。

長津結一郎さん

長津さんは過去、多様な人たちの「境界」をめぐるプロジェクト「東京迂回路研究」や、TURNの前身と言える展覧会「TURN/陸から海へ(ひとがはじめからもっている力)(※)の運営にも関わってきました。現在はその経験も生かしながら、「異なる人たちがともに生きていくための方法と、そこにあるアートの役割」を研究しています。
(※)日本財団アール・ブリュット美術館合同企画展 2014-2015

そんな長津さんの発表テーマは、「アートと社会包摂の文脈から見るTURN」です。

近年、文化の世界でもよく聞かれる「社会(的)包摂」という言葉。長津さんによると、この言葉はもともと、1980年代のフランスで注目された社会学や社会福祉学の言葉で、日本では2000年頃から厚生労働省の文書などに登場しました。一般的には、社会的弱者を排除・孤立させるのではなく、社会で支えていくことを意味し、肯定的な意味で使われることも多い言葉ですが、長津さんはそこに、じつは「危うさ」もあることを指摘します。

「社会福祉学などでは、以前から、『包摂』と『排除』の表裏一体性が議論されてきました。というのも、そこで『排除された人』を包摂するのは、まさに、その人たちを排除してきた側の価値観に属する人だからです。社会包摂には、マイノリティの人を『今の社会』、つまり、マジョリティの側に包摂するという意味が含まれます。そこで、排除している主体が包摂を謳うことの矛盾が指摘されるわけです。しかし、芸術文化の世界で『社会包摂』の言葉が使われる際、その側面はあまり意識されていないように感じます。」

一見、善意で行われる包摂が、じつは既存の資本主義的な価値観の一端を担うものにもなりうること。そうした包摂のあり方を指すものとして、長津さんは「示差的包摂」という言葉を紹介します。また、「包摂」を考えるうえでは、包摂される主体を、自分たちと同じものとして扱うか(「同一」)か、異なるものとして扱うか(「異別」)という観点が重要だと語ります。同じ包摂でも、その扱いによって意味は大きく変わるのです。

社会包摂を謳うアートの取り組みにも、こうした無自覚の排除の危険性は伴います。そこで重要なのは、相手を「隣にいる他者」と捉え、その人たちのシティズンシップ(市民としての誇り)を育む関係性を構築することだと、長津さんは言います。

現在、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」など、社会との関わりに価値を見るアートのあり方がさまざまに登場しています。しかし、そもそも、「社会」と「アート」は分けられるものなのか? そんな疑問から、長津さんはジェームズさんらとともに、アートと農業について考える「奥八女芸農学校」というプロジェクトを行っています。

たとえば、台湾の作家と一緒に地元の食材を使ったレシピを考えたり、土の上に横になって地球の声を聞いたり……。既成の美術史では「アート」とは捉えられない、こうした活動のなかで人々が受け取るものとは何なのか。長津さんは、それを言葉にしようとしている例として、千葉大学の神野真吾さんの「感性に基づき、いまだ価値の定まらない何ものかを生み出し、その価値を未来に向けて問うもの」 や、九州大学の中村美亜さんの「世界の見え方や関係性を変える仕掛け」という、「アート」の定義を紹介しました。

また、長津さんは、障害を持つ人の芸術活動に関わってきた立場から、そこで起こる創造的なプロセスを、「共犯性」という言葉で呼ぶことを提案します。

「障害者の表現をめぐる現場を訪れると、そこで生まれる作品は、障害者の作品というよりも、当事者や支援者など多くの人々の関係の産物だと感じます。従来、そうしたあり方は、『共同性』と言われてきました。しかし、ここで重要なのは、単に複数の人が関係していることではなく、芸術活動を通じて非日常的な関わりが生まれることです。障害者と健常者が、どちらか片方の主体に寄せることなく、お互いに相互作用を与えながら見たこともないようなものをつくる関係、それを『共犯性』と呼びたいと思います。」

一方、そこで注意すべきは、あくまでも声の小さい側、排除されてきた側を中心に置く意識を持つことです。なぜなら、排除された側は、マジョリティのもつ、言葉やお金のような資源をもっていない場合も多く、「共犯」の意思を示すことができない場合も少なくないからです。それを見失えば、その「共犯」は一人よがりのものになってしまいます。

「私があなたと『共犯』できたとしても、あなたが私に『共犯』できるとは限らないということ。そこには厳然とした『障害』の現実があります。しかし、障害と健常の間にある『境界』が、ときにクリエイティビティを生むことがある。大切なのは、自分が権力の側にあるという意識、そして、『あなたが感じていることと、私が感じていることは違うかもしれない』という意識を持ちながら、共犯のプロセスを丁寧にデザインしていくことだと思います。」

■目に見えないルーツを、どのように捉えるか

イベント後半は、ゲストの二人に加え、TURN監修者の日比野克彦と、プロジェクトディレクターの森司も参加したクロストーク。司会は、TURNコーディネーターの奥山理子が務めました。

ゲストの発表の感想を聞かれた日比野は、「社会実装の話があったが、僕はアートを社会に機能させたいとずっと言ってきました。しかし、それに対して、機能しないといけないのかという疑問もある。そうしたなかで、いまの社会でアートはどのようにあるべきかという問いから始まったのがTURNです」と、あらためてTURNの出発点を語りました。

日比野克彦

一方の森は、ゲスト二人には、「社会のなかにアートがあると信じている」という共通点があると語りました。

「ジェームズさんは自己体験も含め、アートが社会の外側ではなく、内側にそもそもあることを心底信じている。長津さんも、アートを根本的に問い直し、私たちに『あなたはアートをもっているか?』と問うている気がしました。そして、アートのパワーを感じているからこそ、その行使の健全性が重要なのだと突きつけてきた。TURNにも踏みとどまって考えるべきものがあるという指摘は、活動を続けるうえで重要なものです。」

そこから話題は、ジェームズさんがTURNに必要な言葉として「root」(根)を挙げたことへ。これについてジェームズさんは、「root」と近い発音の単語に「route」(道)があるとし、その動名詞「routing」(経路の決定)とかけて、「root」という言葉を使うときには、「rooting」(根づかせること)という意味もイメージしていた、と語ります。

「個人や何かのルーツとは、目に見えないものなので、誰かには感じられ、ほかの誰かに感じられないものです。個人が育った背景で、その人が感じられる『色』は変わる。このことを、もっと考えないといけないと思います。ある人のルーツを知り、それを日常的なふるまいのなかで共有しようとすること、いわば『rooting』と言える作業を通して、その後の活動のかたちは大きく変わってくると思います。」

一方、長津さんは、こうした「背景の共有」がもつ問題点を指摘します。長津さんは以前、映画づくりのプロジェクトにおいて、参加者が「車椅子体験をしよう」と提案した際のエピソードを紹介しました。この提案を聞いた車椅子使用者は、普段は車椅子を利用しないほかの参加者に対し、その一種の欺瞞性を厳しく問うたと言います。

「その車椅子使用者が伝えたかったのは、どこまで行ってもその人自身の体験を他者がすることはできないということでした。もちろん、擬似体験で得られるものもある。しかしその一時的な体験が、どれだけその人の歩みを『rooting』することになるのかは、慎重になる必要があります。」

と同時に、ジェームズさんの発表で、「根の大きさは枝の大きさで測れない」と語られたことが印象的だったという長津さん。

「そこから思うのは、即座にルーツを共有しようとするのではなく、枝葉の部分に豊かな関係性を築けないか、ということです。TURNを3年間、見てきたなかで、個々のプロジェクトにはとても豊かなものがありました。その枝葉で起きていることを、TURNという幹の部分にいかに返して反映させていくのかが、問われているのではないでしょうか。」

こうしたやりとりを聞いた日比野は、ジェームズさんと長津さんは、どちらも「root」という「目に見えないもの」を感じつつ、それに対して対比的な捉え方をしていると指摘します。つまり、見えない部分があったとしても、他者とつながり得ると考えるジェームズさんと、その見えない部分に一種の危うさがあると考える長津さん、というように。その上で、アートを軸にしたTURNの活動に立ち戻り、議論をまとめました。

「TURNは近年、海外での展開も行っていますが、そのなかで世界の工芸品を多く見ていると、人類の基本的な造形的な言語は、それほど種類が多くないということに気付かされます。つまり、柔らかいものを持つと、人はつい丸めたくなる、細いものはついねじりたくなる。そして、その基本的なもののなかに、その人らしい癖が出てくる。ものをつくることは、見えていないものを見るための行為でもあります。お互いにものをつくるところを見ることで、その共通性や違いを共有できるのが、ものづくりの力だと思います。」

TURNの可能性と課題をめぐって、率直な意見が飛び交った今回のTURNミーティング。ここで言葉にされたさまざまな視点を、TURNがどのように活動に取り込んでいくのか。今後の活動にも、ぜひご注目ください。

執筆:杉原環樹
写真:伊藤友二

© Arts Council Tokyo