[インタビュー]手話と時間 ―「ゆらぎの交流」―

瀬戸口裕子[手話通訳者]
聞き手=畑まりあ(アーツカウンシル東京)

2020年9月に開催した「第11回TURNミーティング」では、手話通訳の聴者が、耳の聴こえない手話通訳のろう者に手話で内容を伝え、それを受けたろう者が公衆に向けて手話で発信するという、ろう者と聴者の連携による通訳を行いました。手話通訳は、場や相手の状況によって配慮や工夫が加えられるもので、ろう者の手話には、豊かな表情や表現が含まれるといいます。そこで見えてきた「ゆらぎ」の共有とは?ろう者に手話で内容を伝えた瀬戸口裕子さんに話を伺いました。
<「TURN JOURNAL WINTER 2020-ISSUE 06(2021年1月発行)」より>

「第12回TURNミーティング」にて、手話通訳のろう者に情報を伝える瀬戸口。 撮影:金川晋吾

手話と音声による会話の違いとは?

―― 瀬戸口さんはこれまで様々な現場で、手話の多様性や柔軟性を体感してこられたと思います。まず、手話による会話と、音声による会話の違いについてお話しいただけますか。

「メディア」が違うといいますか、もともとの言語体系が異なります。ろう者は主に目で情報を集め、聴者は耳で集めると思います。手話は、「目で見た会話」がより豊かだと感じます。たとえば「この前、○○を見た」という話題が多く、みなさん視覚的に物事をよく記憶しています。時々「瀬戸口さん、○○の看板(表示)見た?」と聞かれたりするのですが、私は全然見ていなかったりする(笑)。手話は視覚的なインプットとアウトプットが日常の会話のベースにあると感じます。

―― 手話通訳者は、「見る」と「聞く」、二つのメディアをどう統合するのでしょうか。

チャンネルを変える感じです。「音」として入ってくるものを、頭のなかで映像化する。それを形や動きとして伝えていくことだと思っています。たとえば、音声で「今日は寒いなか、校庭を一生懸命に走りました」と聞いたら、その映像をまず頭のなかで思い浮かべて、その状況になりきって手話で表現します。
手話には、「同時性」という特徴もあります。「携帯を見ながら、コーヒーを飲む」というように、同時に二つのことを行っている場合、音声で表すときは、「携帯を見る」と「コーヒーを飲む」ことを一緒に伝えることはできませんが、手話だと二つの動作を同時に表すことができるのです。

―― 反対に、手話で伝えるときに時間がかかることはありますか。

抽象的なことや、具体性が欠けていてイメージがしづらい内容は、伝えるのに時間がかかってしまうことがあります。また日本語独特の、同音異義語による語呂合わせなどが話題に出てくると、補足説明が必要になり、時間がかかる場合があります。
ですが、逆もしかりで、手話を日本語で伝えるのに時間がかかってしまうこともあります。表現された手話の意味はつかめても、それを日本語でどう言い表せば良いのか、難しいことがあります。やはり手話と日本語、それぞれの言語が持つ概念が違うのだと感じたりします。

細かい観察力、豊かな表現力、深い感受性

―― 先日の「第11回TURNミーティング」のときのように、手話通訳のろう者に情報を伝える際に、心がけていることはありますか。

アイコンタクトを大切にしています。そして情報を固まりで伝えるように心がけています。細切れにしてしまうと意味を見失いやすいので、流れのなかで、意味を固まりとして伝えていきます。イメージとしては、荷物を一個ずつ手渡すのではなく、コンテナ車で輸送するみたいに、言葉のブロックを送り続けます。また手話通訳のろう者と聴者の信頼関係、技術と訓練、そのための環境が何より必要だと思います。

「第11回TURNミーティング」にて、手話通訳のろう者と、ゲストをつなぐ瀬戸口(中央)。  撮影:鈴木竜一朗

―― 手話通訳のろう者に伝わった情報が公衆に向けて発信されたとき、何が起きているのでしょう。

ろう者により伝わりやすい表現に変換されます。また、言葉が映像のように変わり、「イメージが広がる」ように変換されていきます。ろう者の表情は、質感も表現できるんです。ボール一つにしても、表情で「硬い」とか、頬を膨らませたりへこませたり動きを加えることにより、空気がパンパンとか、ぺこぺことかボールの状態などを瞬時に表すことができる。たとえば、「波が打ち寄せていました」という言葉についても、ろう者が表現する波って、繊細な波の動きやダイナミックな波まで、まるで波と同化しているかのような表現が目の前で起こる感じなんです。

―― 同じものを見ても、機微や表情、質感を含む情報量が違う。ビジュアル的に豊かですね。

私たち聴者は見ているようで、見ていないのかもしれません。ろう者と一緒に美術館に行くと、「そこまでちゃんと見ていたんだ」と、見る視点の細やかさに気づかされます。肖像画を見ても、着物の模様まで話してくれて、その質感をすぐに再現してくれます。聴者ですと「きれいな格子模様だね」で終わってしまうところですが、そのきれいさ、ディテールを再現できる。その力は本当に素晴らしいと思います。

―― その再現性は時間を超え、そこに再び感じる時間が生まれ、より深い体験につながりそうです。

「この前ね、○○へ行ってね、○○を食べてね」という話を聞くと、自分もタイムマシンでその場に行ったかのように、体験がリアルに伝わってきます。聴者と話していても、そこまでイメージが膨らむことは少ないように思います。
生きている時間の「質」が全然違うといいますか、彼らの話を聞いていると、追体験する感覚になり、映画の話でも、主人公から脇役まで、いろんな人に成り代わって説明してくれます。実際に映画を一本見たような気持ちになるし、もとの映画より面白いと感じるぐらいです。

時間の「質」と「質感」、「ゆらぎ」

―― 先日の「TURNミーティング」の現場は、背景も言語も異なる人たちによる出会いと発見に満ちた時間のように感じました。

それは「ゆらぎ」の共有だったのではないかと思います。時間には「量」と「質」という二つの側面があります。「今日の打ち合わせは何時から何時まで」といった時間の長さを「量」として共有してきたこれまでの日常に対して、コロナ禍以降、その「量」的な時間が急にあやふやになり、一人ひとりが日常をどう過ごすかが大切になり、時間の「質」というものが浮き彫りになった気がします。
その時間の「質」を、手話通訳に重ねてみると、時間には一人ひとり特有の「ゆらぎ」があるんですよね。たとえば、「TURNミーティング」のゲストとして参加された、盲ろう者の森敦史さんへの手話通訳では、情報が伝わっているかどうか様子を見ながら、待つ時間が必要なときがあります。また言葉を伝えるにも、一方的に絶え間なく話すのではなく、言葉と時間のバランス、どこで区切り、どう伝えるのが一番良いかを考えています。そして、森敦史さんは触手話(しょくしゅわ)という手指の触覚を通して、様々な感覚をつなげ、話し手の「ゆらぎ」や「質感」を感じ取ろうとしているような気がします。
今回の「TURNミーティング」は、一人ひとり、時間の「ゆらぎ」が異なる人たちが一堂に集まって、そこでお互いの「質感」を探りながらコミュニケーションを取っていたと思います。そういう経験はなかなか普段なくて、その意味でとても豊かな時間が流れていたと思います。

―― その「ゆらぎ」は、障害の有無にかかわらず、誰もが必要としているものなのでしょうか。

コロナ禍で人と会うことができなくなり、オンラインだと「ゆらぎ」が削ぎ落とされていく。話しているときに身体が揺れるとか、ため息をつくとか、そういう瞬間が見えにくい。手話通訳者としては、単に言葉を翻訳するだけではなく、話しているときの「ゆらぎ」や空気感みたいなものを自分のなかに取り入れて、その雰囲気をできるだけ翻訳して伝えることを心がけています。無意識の動作に現れる「ゆらぎ」を感じ取って交わされるのが理想のコミュニケーションだと思います。

―― 「ゆらぎ」の多様性をお互いに感じ取り、認め合えると良いですね。

ろう者と聴者が生きている世界には、それぞれの集団のなかに不文律があると思っています。またそれと同時に、人は個々の「ゆらぎ」を備えている。「ゆらぎ」とは規則性と不規則性の間に存在するもので、同じ時間を過ごしていても、それぞれの時間の感じ方が違うパラレルワールドなのかもしれません。
お互いの「ゆらぎ」を享受したり、分かち合ったりするのはとても面白くて興味深いと思います。どちらかがどちらかを押し潰さないよう、どちらかに偏らないよう、手話通訳者としてそれぞれの時間をつないでいきたいです。

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瀬戸口裕子(せとぐち・ゆうこ)
手話通訳士、アート・コミュニケータ。「TA-net」会員。生活に密着した手話通訳から、美術館やアートプロジェクトの手話通訳までを担う。近年、新たな取り組みとして演劇の舞台手話通訳を行う。2020年度のTURNミーティングでは、アクセシビリティに係るコーディネートに携わった。

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